2024.05.26

連絡が来るものとばかり思って待っていたのに結局来なかったことにわたしは少なからず落胆し苛立っていたのだけどふとあれもしかしてと思い連絡をしてみたら向こうもわたしからの連絡を待っていたのらしい。こういうことは思っているよりも本当は多く起こっているのかもしれない。言葉を端折っては良くない、とわかっているつもりでも。

Alice Phoebe Louのライブで、音源よりもよっぽど歌詞が聴こえてきたことについて、それはこれまでの経験と照らしてみると稀なことだったのでそれについて考えている。音源のミックスに寄るところ(歌を出し過ぎないとか)もあるだろうけれどそれよりもライブのときに歌がとてもくっきりはっきりと出ており、わたしはへーと思ったのだよな。音響チームも一緒に来ているのかと思ってPA席を振り返ってみたけれど卓の前には日本人と思しき男性がおり、ライブ終盤のメンバー紹介のときも日本名(たしかヒロ、ともう一人)でクレジットされていたので日本での音響さん、みたいなことなんだろうか。何のマイクを使っているのか調べてみようと思いながら忘れている。

本当はきのう和歌山に帰るつもりにしていたのだけど、弟が子どもを連れて遊びに来るというので急遽予定を変更していま名古屋に向かっている。久しぶりに会う弟の子どもは当たり前にひと回り大きくなっており、むちむちで重たくて温かくて可愛かった。あまり前だけど姉の子どもとは全然性格も様子も違うので面白い。

しかし彼らは朝早くやって来て昼過ぎにはさっさと帰って行ったので午後がまるまる空いてしまったわたしは結局観に行けておらずあぁ観られないまま帰るのかと思っていたOpusを観に出掛けた。夕方からの上映でその一本前がボブマーリーのONE LOVEだったのでせっかくだしと思って二本立てで観た。Opusはとても良かった。というか、素晴らしかった。音が、本当はたぶんもう少し良いのではという気がしたけれど(全体的になんか遠かった、ONE LOVEや本編前の予告編諸々と比較すると単純に音圧の問題も大きい気もする)それを抜きにしても呼吸やペダルの音なども聴こえてきて、そしてわたしはたぶん坂本龍一さんがピアノを弾いている姿をほとんど見たことがなく、あぁこのひとはこんな顔でこんな風にしてピアノを弾くのか、と思って、その姿のその様の、隅々まで神経の行き渡った美しさに胸が詰まる思いだった。沈黙さえも美しく、無音さえも音楽というのはこういうことか、と思った。音楽とは音と音を繋ぐスペース(空間、間)のことだ、という誰かの言葉を思い出す、そしてこのひとはこの世にはもういないのだ、と思う、しかしそれでも音楽はこんなにもこんなにも、残っている、続いている、そのことを思う。

ボブマーリーにしても、わたしは彼の音楽はいわゆる代表曲くらいしか知らないし、彼の功績、というか、彼の成し遂げたこと、見ていたもの(なんてそんなのは実際の本当のところは本当にはもちろん知り得ないけれど)、例えば対立する二大政党の党首二人をステージ上で握手させたなんていう歴史はまっく知らなくて(たぶん有名な話なんだろうけれど)、なんというか、音楽を聴く、といったときに実際的にはなにを聴いていることになるのだろうか、みたいなときどき考えることをまた考えている。

しかし二週間半も東京にいてしまった。長かったな。こうなってくると自分の家とか暮らしみたいなものの所在がどんどんというかますます曖昧になっていく、はっきりとした実感を伴って。だけど行きたいと思っていた千葉の友達のところにも遊びに行けたし(片道二時間の運転、久しぶりの都内の運転で冷や冷やしていたけれど無事に帰宅、平日だったので行きも帰りもアクアラインはがらがらでうっかりすると140とか150キロとか出ていて、わたしにはそういうところがある、運転はもう少し上手くなりたい全体的に)ライブをしたことなんてもう遥か前に感じられるけれどちゃんと良いライブが出来て良い時間が作れて、だからまぁ総じて良い滞在であった、と結論する。気になっていた大田ステファニー歓人の『みどりいせき』を買ったので、楽しみに読みながらゆっくり家に帰る。小さいひとはまたきっと少し大きくなり、言葉を増やしていることだろう。よく晴れている。