2022.03.21 過信しているなにかを

数日前に、朝方まどろんでいるときに見た夢に少し懐かしいひとが出てきて、それがなんだかとてもリアルで、陽が射していてちょっと優しくて明るくて、その感じがなんとなくずっと残っている体の中に。あのひとは元気だろうか。めっきり連絡を取らなくなってしまった。新しい曲でもできたら連絡するのだけど。曲はなんかもう、全然できる気配がない。ギターはそろそろ埃をかぶっている。かわいそうに。

きのう、ちょうど2年ぶりに会う、ひと回り歳が下の妹のように思っている友人と食事をした。お互い2杯ずつ飲んで3杯目を頼もうかというころ、彼女が急に「のんちゃん最近泣いてなかった?なんかそんな感じがして、うち今日ずっと泣きそうなんだけど」と言った。わたしはとてもびっくりした。彼女はひとのオーラが見えたりとか、いろんなものが「上から降りて」きたりするタイプのひとで、それで、だから、なんか、そんなことを言われて、でもわたしは具体的なことはどうしても話す気にならなくて、でもそれがなんでなのかわからなくて、今日もいまもずっとわからなくて、いろいろあって、というような有り体なことを言って、そうして酒を飲んで、彼女はよくごはんを食べて、彼女がそのうち首吊りについて話しはじめて、隣の席に座っていた大学生と思われる女性ふたりがきゅっと聞き耳を立てているのがわかって、彼女たちは法律の話をしていたのをわたしは会話の合間に聞くともなく聞いていて、そしてわたしはねーちゃんだから気前よく会計をして、彼女を連れて久しぶりにルルドに行った。

ルルドというのはカトリック世田谷教会という下北沢の小さな教会の中庭のことで、カトリック世田谷教会というのは、わたしが懇意にしていたサーカスというライブもできるダイニングバーの向かいにあり、以前サーカスと教会の2会場でサーキットのイベントをやらせてもらったり、生活のMVを撮らせてもらったりととてもお世話になっていたのであって、そしてサーカスは去年の春にコロナが原因で閉店したのであって、閉店に当たってわたしたちはチャリティーの配信ライブを最後にやって、あの一ヶ月間わたしは毎日泣いていた。あれからちょうど一年になろうとしているのだな。

ルルドはいつもどおりとても静かで、空がぽっかり空いていて、でもきのうは曇っていたから月も星も見えなくて、桜みたいな花が咲いていて、でも暗くて梅か桜か判別がつかず、でも木がずいぶん大きかったからきっと桜ではないかという気がして、寒桜かしらと思っていたら帰りの電車のモニターに桜開花のニュースが映されていた。

同じ言葉が何度も何度も頭の中をぐるぐるぐるぐる回っていて、それをはじめメリーゴーランドのよう、と思ったけれど、そのあとで、はらってもはらってもしつこくまとわりついてくる虫のようだと思った。

いつも、つい言葉を過信してしまうな、ということをこの数日考えていた。言葉の通じなさを何度も経験しているはずなのに、懲りもせずあるいはすっかり忘れて、何度もなんども推考しては言葉を投げかけて、そしてあぁそうだ言葉って伝わらないのだった、ということを思い出してまた思い知って落胆し失望しときに傷ついたり憤ったりする。相変わらずのひとり相撲。いや相手がいるからひとり相撲ではないのか。でも、ひとりよがり。

だけど、わたしが過信していたのは果たして言葉だったのか?過信していたのは言葉が伝わると思った相手ではなかったか?ということを思って、そしてさらにそのあとにひょっとしたらだけど過信していたのは自分自身だったのではないか、という考えが浮かんできた。伝わる言葉を持っているはずだ、あるいは自分の言葉は伝わるはずだ、という過信。そういうことを考えていたのだけど、実際のところわたしが過信していたのはなにかという問いの解はまだ出ない。伝えるって、伝えようとするってとても骨が折れる。そのくせ報われることは稀。

どうしても、伝わるはずだと思ってしまう。言葉なのか相手なのか自分なのか、その一連なのか、を信じてしまう。なんでかな、と思えば、それは希望的観測というか、伝わって欲しいという自分の願いや祈りやあるいはエゴみたいな気持ちの表れなのかもしれないな、ということをいま思いながら。

目が覚めるような黄色のラナンキュラスを買って花瓶に生けた。葉っぱがきのうお店で食べた春菊にとても似ている。