2025.08.17 色めきときめく

移ろいゆく自分を眺めている、あるいは少し振り回されている。でも面白い。サイコロを振って、へぇこの目が出るのかと思って驚いていればもうひと回転してさらに違う目が出た、みたいな感じ。これで決まりなのかまだまた変わるのか、どうなんだろう。

きのうは無性に巨大な本屋に行きたいという気持ちになったのでめずらしく夕方からひとりで出掛けた。東京駅のオアゾ丸善まで。各階を、特に用もないと思われる棚も含めてぶらぶらひと通り歩き回り、目についた本をぱらぱらとめくってまた歩いてを繰り返して、気になる本がいくつもあったので今日は予算1万円!と心に決めて、そうしてしかしわたしのいちばんの目的は4階の洋書のフロアであったので、2階3階を眺めたあとひとまずは何も買わずに4階まで行き、見慣れないペーパーバックの棚を行ったり来たり何往復もして、結局リディア・デイヴィスの未邦訳の新作と、カズオ・イシグロの、読んだことのない小説の薄いペーパーバックを選んだ。英語で小説を読むことをしたいと、もう長いこと思いながらそのうちそのうちと後回しにしてきたのだけど、この間Brian EnoのWhat Art Doesが意外とすらすら読めたことに味をしめて、というか勇気をもらって、なにか読みやすいものを買ってみよういよいよついに、という、そういうわけなのだった。本当は大好きなカルメン・マリア・マチャドの小説を原文で読みたいという気持ちがあったのだけど彼女の作品は見つけられなかった。でもリディア・デイヴィスも同じくらい好きだからいいんだ。彼女の短編は日本語に訳してもヘンテコだけど、英語でもやっぱり当たり前にヘンテコで魅力的。

そんなわけでペーパーバック2冊と、カフカの断片集が良かったのでシリーズの短編集と、同じ列の棚にあった太宰の読んだことのない小説もぱっと手に取り、ペーパーバックを2冊買ったのだし、北海道でも本を買ったし、まだ読んでない本もいくつもあるしまた来ればよいのだし、と自分に言い聞かせて結局合計4冊で済んだ。

しかし英語のまとまった文章というのを久しぶりに読んでみれば、やっぱりずいぶんとシンプルな言語だなという印象を持つ(それなのに日本語に訳すとずいぶん複雑になる、というのは興味深い)。わたしは学生時代に辞書のように分厚く図鑑のように馬鹿でかい教科書を何冊も読んだのでそれなりに読む訓練もしたつもりだけれど、ペーパーバックには何となく苦手意識があり、というのはたぶん英語を勉強し始めたばかりの頃に自分のレベルに見合わない本を選んでしまい挫折したことがニ度あり、そのせいだろうと思うのだけれど、それがいまになってもしかしたら克服されるのかもしれない。そうだとしたらそれは楽しいことだ。それにしても洋書というのは日本語の書籍の1.5〜2倍ほどの値段がするのであって、それは考えてみれば至極当たり前のことなんだけれど、でも慣れていないわたしは手に取ったいくつかの本をひっくり返して背表紙の値札を見るたびに驚いてしまった。それにしてもそれにしてもペーパーバックの紙のにおいの懐かしさったら。その昔、藁半紙という茶色くて薄っぺらくて独特のにおいのする紙が、あったよね、なんでペーパーバックは決まってこの紙なのだろう

そうしてオアゾ丸善のような大きな書店でゆっくり本を物色するというのも考えてみればずいぶん久しぶりのことで、高校生のとき学校帰りに新宿高島屋タイムズスクエアの紀伊國屋によく行っていた、そのことを思い出した。あの頃はいまほどたくさんの時間を読書に割いていたわけではないけれど、それでも棚に並んだたくさんの本の表紙なり背表紙なりあるいは手書きのポップなりを眺めて、目が合った本を手に取ってレジまで持って行き、帰りの電車で読む、という、そういう一連の読書の楽しみ、言い換えるならばそれは知らなかった道の世界に出会う根本的な喜び、そういうものを知った原体験だったように思う。通学の電車の中や休み時間に文庫本をめくっている自分に、密かに誇らしさを感じていた、そういうぜんぶが懐かしく愛おしい。しかしあの巨大な紀伊國屋もいつの間にか無くなってしまい、知らない間にどこにでもあるチェーンの家具屋に取って代わられていた、知ったときはショックだったなぁ。洋書のフロアだけは残っているので今度またゆっくり行ってみよう、本屋はいつもいまも心が色めきときめくわたしにとって神聖な場所つまりは聖地なのだった。