2023.12.23

長距離の移動をしているとどうしてこうセンチメンタルな気持ちになるのだろうか。そういうわけでバスをやめて初めての電車移動、名古屋まで新幹線、名古屋から在来線。とても久しぶりの名古屋、ライブで何度か来た。在来線にはなにもわからずとりあえず乗ってしまって、車内で乗車券と特急券を購入した(たまたま現金を持っていたのでよかった、こういう場合もし持っていなかったらどうなるのだろう)。いまだにこういうことがよくわからない。名古屋の駅で急いで買ったお弁当を車内で食べた。奇跡的にベジタリアン対応のお弁当が売っていて大層ありがたかったけれどなんだか味が濃くてどれもこれも塩っぱくて市販のお弁当てそういえばこんな味だったかもしれないと思う。それにしてもプラスチックよ、という気持ちになってこんなことだったら何か作ってくるか地元のパン屋さんでサンドイッチでも買ってくればよかったと思った。窓から見える景色が綺麗。海と山。天気が良い。

新横浜の駅で東急の改札から新幹線乗り場に向かう通路の隅で、小さな敷物を敷いて地べたに座っている男性の姿があった。わたしはその姿に目を留めながらも一度当たり前のように通り過ぎた。でもなにかが引っ掛かって、足を止めた。そしてほとんど反射的に財布から千円札を取り出しそれを握りしめて道を戻って、男性の前に置かれた透明のプラスチックのカップに入れた。カップの隣にはちぎったメモ帳が置かれており、鉛筆で「私は路上生活者です」と書かれていた。文章には続きがあったけれど読み進める前に立ち上がってしまった。なにが書かれていたのだろうか。男性はわたしに手を合わせてお礼を言った。カップは空っぽだった。冷たい風が吹いて、わたしは言葉が出なくて、「お気をつけて」と一言をどうにか絞り出して、その場を立ち去った。改札を入れば大きなキャリーバッグを引いたひとたちでごった返しており、ここにいるひとたちは皆1万円とか2万円とかのお金を払ってどこかへ行き、恐らくは楽しい良い時間を過ごすのだろう。そしてそれはわたしだって同じだった。彼は何時まであの場に座り、そのあとはどこに帰るあるいは行くのだろう。わたしの差し出したわずかなお金をなにに使うだろう。自分のしたことになんの意味があっただろう。駅のホームで行き交うひとの姿をぼんやり眺めながら抱撲の奥田知志さんのことが思い出された。だけど、わたしになにが出来たというのだろう。わたしに向けて合わせられた手と手、指先、まっすぐに見られなかった目、くたびれたニット帽、爛れたように赤くなっていた頬。だけど、わたしになにが出来るというのだろう。

どうして世界はこんなふうなんだろう。どうしていつまでもいまだにますます、こんなふうなんだろう。

先月の9partyの哲学対話で、イスラエルのことについて「自分が悲しんでいいのかなって思うんですよね」と涙を浮かべながら話してくれたひとがいた。その言葉のことをずっと考えている。世界の遠く近くで起こっているたくさんの苦しみ悲しみに胸を痛めても、わたしの日々は当たり前に続いており、わたしはあたたかい部屋で、水も電気も食事もあって家族もいて、決して裕福ではないが、安心で安全で守られている。そのアンバランさを思うとき、わたしはいつも途方に暮れる。ただただどうしようもない気持ちになる。

それでもわたしたちは想像することができる。知ろうとすること、考えることを、決してやめてはいけないと思う。行動を続けるひとたちから、小さな力を信じる力をもらう日々。

もうすぐ家に着く。帰る家があるということの文字通りの「有り難み」を思わずにいられない。

『ガザ 自由への闘い』
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*暴力的な映像や差別発言などが含まれます