2022.03.14 言葉のつづきとアルコール

最近はほとんどなにもしていない。言葉のことばかりを考えて、言葉を捏ねくりまわして、読んで、書いて、読んで、頭の中に浮かんで浮かんで止めどなく溢れる言葉を観察してなぞって、読んで、書いて、ただただそんなしているうちに時間が過ぎている。まぁ、いいんじゃない、と思う。わたしはもう頑張りたくない。いや違うな、頑張ろうとしたくない。

この一週間くらいほとんど毎晩酒を飲んでいる。ちょっとだけだけどすぐに酔っ払う。なんで酒を飲もうと思うんだろう。手持ち無沙汰だからかな。川上未映子さんの夏物語の中で「大人って何でお酒飲むん?」「さぁ、何でやろな」というくだりがあって、夏子はなんて答えたのだっけ、忘れたいからかもな、だったような気もするけれど、わたしが今勝手に作っただけかも知れない。

今日も飲んでいる。大抵いつもワインを飲むのだけど、今日はなんとなくビールが飲みたくて、この間お土産にもらった箱根ビールというのを開けた。柚子の香り。瓶が可愛くて、美味しかった。たった一本でふわふわしている。

なんでお酒を飲みたいと思うんだろう。いつか歳上の男性がひとりで深酒してしまう理由を「さみしいからだと思うんだよね」と言っていたな。彼は元気だろうか。

きのう久しぶりに怒りに身体が震えるほど受け入れ難い出来事があって、親友に緊急の助けを求めた。「悪いんだけど、こいつまじでクズだね、あなたは間違ってないよって言って」気が気じゃなくて、と言って彼女は仕事の現場中だったのにぜんぶ読んで返事をくれた。

成長したなと思うのは、こういうときに誰かに助けを求められるようになったこと。わたしは十代からの親友にすらそれをすることがずっと出来なかった。

ここ何日か、性暴力のこととか、それに付随する自分の記憶とか気づいたこととか、周囲のひとの発信や、ひととのやり取りなど、それはそれは多くの情報を受信していて、それで、わたしはいまそれらについて、誰かに話を聞いて欲しいと思っている。そしてそれはたぶん、生まれて初めての感覚ではないだろうかという気がしている。子どものころのことはわからないけれど、大人になってからはたぶんそうだと思う。とても新鮮。へぇ、と思いながら、帰り道を歩いた。

そしてそんな風に思えるようになったり、ひとに助けを求められるようになったのはなぜだろうかと考えてみると、それはさよこさんのおかげがとても大きいように思う。わたしとさよこさんは日常的に割とボリュームのあるやり取りをしていて、例えば世の中のこととか、気になったニュースのこととか、こんなことに疑問を持っているとか、今日こんなことがあってこんな風に思った感じた、というようなことを話し合う。わたしはそのおかげで、自分のことをひとに話すことにだいぶ慣れることができたのではないかなという気がしている。そして最近はそういうやり取りができる相手がまた何人か増えて、そのことをとてもとても嬉しく思っている。こういうやり取りが広がっていったらきっとなにかが少しずつ変わっていくんじゃないか、という希望や予感のようなものを持っていて、だからどうやったら広げていけるかな、ということを考えている。

あしたは映画に行きたいな。もしも外に出る気持ちになったら。