2023.06.03 おのれの作品のよしあしを

「自分の作品のよしあしは自分が最もよく知っている。千に一つでもおのれによしと許した作品があったならば、さいわいこれに過ぎたるとのはないのである。おのおの、よくその胸に聞きたまえ。」

金原ひとみをつぎつぎに読み(しかし読み足りずすべて読破しようという気持ちになりとりあえず文庫を三冊買った)それからなんとなく本棚に目をやればずいぶん前に買ったきりついぞ読んでいなかった太宰治のもの思う葦が目に入り、なんの気なしに読みはじめてみれば、歳を重ねて経験や知識が積み上がることはあれど、34、5くらいで脂がのってきて40過ぎたらあとは衰退、晩成の芸術なんてものはないわ、なんてことが書かれておりそうかと思えば、冒頭の文章。しかし(しかも)これを書いた太宰は当時まだ二十代だったというのだからまだ数十ページしか読んでないのになんだかこてんぱんにされたような気分。ひとつだかふたつだか歳が上の友達にのぞみちゃんはなんかすごい若い気がしてしまうというようなことをこの間言われ、その真意を図りかねていたそのことを思い出してその真意についてふたたび考えてみるけれど考えたとてわかるはずもないのだった。

久しぶりにパンケーキでも焼こうかなという気持ちになってふと出来心でめずらしくレシピ本を参照し真面目に計量した生地を焼いてみれば派手に失敗した。思わずえ、と声が漏れた。しかもなんか量が多くて、残せばいいのだけど結局平らげてしまい胃が。美味しかったけど。久しぶりにコーヒーも淹れた。

ミックスを聴いて聴いて聴いて、少し休んでまた聴いて聴いて聴いて。そうしながら聴くという行為の特異性について考える。聴く、ことはなんというか、最も蔑ろ、にされているとまでは言わないがなんというか、もっとも他の視覚や触覚などの情報によって妨げられ遮断されやすい感覚なのではないだろうか、というような、うまく言語化できないな。あるいは切り離されている、独立した感覚、行為であるとも言えるね。しかしわたしはだからなのかわからないが聴くという行為に対してながらく苦手意識がある。たんに集中力の不足ということでしかないのかもしれないけれど。

大雨も過ぎ去って、良い風も吹いているしどこかに出掛けていきたいような気持ちにほんの少しだけなるけれどわたしにはどこにも行くところなんてないのだった。ミックスをこれからまた聴いて聴いて、聴く。