2023.06.07 蛍光灯の明るさがやけに

まあまあ長い日記を、書いて、さっき行きの電車の中でアップして、しかしいま帰りの電車の中で見てみれば跡形もなく消えていた。こんなことは初めて。なにをどんなふうに間違えたのか。どこへ消えたのか。しかし文章というのはまったく同じものを二度書くことができない。それはなんとなく不思議なことだ。

そして同じことをまた書こうという気持ちにはならなくてなぜならすでに一度書いたからで、だから仕方がないので別のことを書こうかな。

いま国会前から帰りの電車に乗ったところ。入管法改定案、明日強行採決されるやも、ということなのらしく、自分のやることが全然進んでおらず決めなくてはいけないことも全然決められておらずそうしてなんとなくあまり気力が湧かずなんかそんなでずるずるとどうにか生きているような近頃だったのでデモにも行けたり行けなかったり、だったのであるが、今日は行かないと後悔する、というか、もし今日家で自分のやることをやって一日を終えベッドに入り明日目が覚めた後に強行採決されてたくさんのひとが傷つき地獄のような目をみることになる、ということが想像され心底ぞっとした、ので30分だけでも、という気持ちでいろいろを机の上に残したままとりあえず着替えて電車に乗ったのだった。

なんか、入管のこともそのほかさまざまのあれこれについても、最近はあんまりSNSなどに書いたりする気持ちになれなくて、こうして日記を書いてみても今日のデモのことを書いたりする気持ちにもならなくて、そしてそれはなぜかなと考えるけれどよくわからない。何でだろう。それぞれの事柄に対する自分の考え方も気持ちもなにも変わっていないのに。単純にそうしたことに疲れたということなのか、あるいは制作で余裕がないからなのか、なんなのか。でも、なんか、いろいろぼんやり考えているけれど考えがまとまっていかなくて、だからかもしれない。しかし一歩引いて考えてみればこんなのだってまったくお気楽でひとりよがりな逡巡で、日々支援活動やデモの企画やロビーイングや署名や発信などの活動を続けているひとたち、そして当事者と呼ばれるひとたちからしてみれば、それどころではない、やらざるを得ないやるしかない、そういうことなわけなので、そう思えば、わたしのこうした態度というのはやっぱりまだどこかで他人事だと思っているということの表れなんだろうか。しかしこんなふうに考えるのは悲しいことだ、そして意味のないことだ。ずーっと、活動を続けているひとたちへの敬意。敬意。電車内の蛍光灯の明るさが、なんだかやけに、なんだか。なんとなくぐったり、身体がしているけれど、帰ってつづきをやる。あらゆることと地続きの、逃れられない、他でもない、自分自身、の日々を、その奇妙さ不可解さを、思う、おもう。あるいは思っているふりをする。