2025.08.29 用はない

わたしの部屋は元から音がないが、音楽さえ消したいま、本当に音がない。沈黙の部屋、というのが誰も知らないだろうがわたしの自主レーベルの名前。相変わらずあまりやることがなく、あるんだけど、ずるずるとなんとない時間の余白がある、でも明日からしばらくは知り合いから頼まれてせっせと働くことになった、というかきのうもせっせと働いた(自分に自動的に被せられる仮面の存在とその機能に驚いた)つまり今日のいまはその隙間ということだから、まあ、ソファでごろごろだらだらと時間を無駄にしたり川上未映子の水瓶を声に出して読んだりきのう焼いたグラノーラを食べてゆっくりコーヒーを飲んだりしても、べつにぜんぜんいいのだった。

イタリア帰りの70代の女性に会った。赤い髪をして、くっきり太いアイライナー、ピンク色のレンズの大きな眼鏡、ビビッドブルーのカーディガン、デニムと花柄の生地をつぎはぎした古着のロングスカートという出立ちで、イタリアには数十年、その前には香港やバンクーバーにも住んだことがある、40代でヘソを出して歩いていた、その歳でその服が着られるのはモモさんだけだと言われたと誇らしげに笑った彼女は、未婚で子どももいないと答えたわたしに「もったいない」とひとこと言い、一度くらい結婚してみればよかった、子どもも産んでおけばよかった、と言った。彼女の後悔に重ねられたわたしの胸の内側には薄く重い膜が張られ内臓をすっぽり覆ってしまった。わたしもいつか同じことを同じように後悔することが、そんなことが、あるだろうか

そうしてそのことについて今朝は冷静に考えてみたのだけれど、現時点でわたしは後悔がない、こんなことを思うなんて嘘みたいだけど、あるいは嘘かもしれないけれど、アメリカに留学したことも、音楽に費やした時間もエネルギーも、コロナ禍での活動も、あちこちに住んでみたことも、自分の未熟さによる過ちや恥、そしてそれに対する反省は数え切れないほどあるが、でもべつに、後悔というのとは違うな、と思った、だから70になっても後悔しないのではないか、とめずらしく楽観的な結論に至った。まあ仮に後悔したとて、それもそれで、自分の人生だ、そういうことを思った

そして話は逸れるけれど自分の後悔をそんなふうに初対面のしかもずいぶん歳下の人間にすらすらと話せるというのはすごいことだと思う、少し前に出逢った歳上の女性も、やりたいことがあるのは楽しそうで羨ましい、わたしはなにもないままただ生きてきちゃったから、ということを会って数分のうちにするすると口にするのでわたしは少し面食らったのだった。わたしは自分のことを話すのが極端に苦手なのでそこに対する壁がないひとに出逢うと本当にびっくりしてしまう

今朝なぜか目覚ましが鳴る前にふっと目が覚めて、枕元に置いてある佐野洋子のエッセイを開けば、人生に用はない、だから何だをつみ重ねるだけだ、そしてときどき生きている実感を得る、しかし実感だって気分だ、と書かれていて、わたしは呆けたような気持ちでその数行を見つめ、眺めた。人生になんの用があるかと考えてみれば、あるような、ないような、でもやっぱり最近はぜんぜんないな、と思う、生きている実感というのはつまり世にいう幸せみたいなものかしらという気がしたけれど佐野洋子はきっとそんな言葉は大嫌いだろうなとぼんやり思った