2023.05.17
金原ひとみの『アンソーシャル・ディスタンス』を読んだらなんとなく西加奈子の『白いしるし』を読みたくなり、それを読み終えると今度は金原ひとみの小説が読みたくなり『星へ落ちる』を読んで、それからなんとなく川上未映子、という気持ちになって久しぶりに『乳と卵』を読んだ。最近はそんな調子で読み途中の本がテーブルに積まれているのを横目に、本棚から本を引っ張り出してきて何冊かを立て続けに読んでいた。集中して本を読むと頭の中が言葉でいっぱいになる。余白がいっさいなく、脳みその隅々まで言葉で埋め尽くされるような、そういう感覚になる。言葉がつぎつぎ騒がしくて落ち着かないのでそれをどうにか和らげ少し整理するために、こうしてまたわたしも言葉を書く。
この間の金曜日の、入管法改悪に反対する国会前の集会で思い出野郎Aチームのボーカルの高橋一さんがスピーチに登壇しており、それがなんというか、とても素晴らしく、素晴らしいという言葉がこの場合にそぐわないような気もするけれど、とにかく素晴らしく、わたしはとても心に残っていて、ツイッターなどでその引用を見かけてはそれについてわたしもなにか書きたい発信したいというような気持ちが沸いたけれど、文章を推敲しSNSにそれを載せるということへの意欲や活力といったものがまったくといっていいほど湧かず、黙ってスクロールしていた。おとといだったか、近しいひとが高橋さんのスピーチについてわたしと同じような感想をアップしており、素晴らしかったですよね、わたしもとても響きました、インディーのシーンにこういう方がいてくれることも嬉しかったです、とメッセージを送って、彼女からもそれに共感同意する内容の返信が来た。そうして、わたしは、自分の中にわずかな違和があることに気がついた。じっと目を凝らしてみると、それは、発せられた言葉そのものだけでなく、「誰が」それを言ったのか、ということへの、なんというか、意味付けというか、価値付けというか、そういうものに対する違和だった。
入管法改悪に反対するデモにも、この間の神宮外苑の森林伐採に反対するデモにも、著名なミュージシャンや俳優の方たちを見かけた。帽子を深くかぶっているひともいれば、そうでないひともいた。わたしはそのうちの一人のツイッターアカウントを検索して見てみたけれど、デモについても、そのイシューについても、何らの発信はされていないようだった。去年、コロナ禍以降はじめて会った友人に、わたしがそれまでに携わっていた活動についていろいろ訊かれたり言われたりし、そのあとに「なにも言っていないからってなにも思ってないわけじゃない」と言われたことを思い出した。コロナ禍に入って社会運動と呼ばれるものに関わるようになって、社会問題と呼ばれるものについて少なからず発信するようになったころ、どうしてわたしがこれをやらなくてはいけないんだろう、これは本来であればわたしの役目ではなく、もっと著名で影響力のあるひとたちのやるべきことなのではないか、ということを思っていた。失くすもののないようなわたしのようなひとは、出来もしない司会をやったり、政治家に会いに行って写りたくもない写真に写ってメディアに載ったり、そういうことを引き受けるから、社会というものに対して大きな声で発言をする力を持っているひとたちは、その力をちゃんと生かし役割を担ってほしい、そういうことをよく思った。いまはもうそういう気持ちはないけれど(そういえばいつの間にかなくなった)それでも、誰もが顔や名前も知っているようなひとが自分の関心があるイシューについて発言しているのを見れば安心したような心強いような、そういう気持ちになる。そしてそれというのは、いったいなんだろう、と思う。隣にいる友人が同じことをするのと、名前も顔も知らない誰かが同じことをするのと、なにがどう違うんだろうか。
坂本龍一さんが、小池都知事に対して出した手紙についてのインタビューにこう答えていた。
私のように多少名前が世に知られた者の声ではなく、市民ひとりひとりがこの問題を知り、直視し、将来はどのような姿であってほしいのか、それぞれが声をあげるべきだと思います。
この言葉は、デモの最中にも登壇者からくり返し読み上げられ、アジカンのゴッチさんも「著名なひとに代弁させてはいけない」ということを言っていた。
この間、近しい友達が「わたしが発信してもなんの影響力もない」というようなことを言って、わたしはすぐにそれに対して反応することが出来ず、曖昧な相槌を打った。なんと言うべきだっただろうか。「ひとりにはひとり分の力がある」というECDさんの言葉をまた思い出す。
そういうことを、この数日は考えるともなくぼんやりと思っていて、著名であること、影響力を持つこと、そういうことの作用について思いを巡らせてみたけれどうまく像を結ぶにはいたらなかった。よくわからん、と思った。しかし今日ふと思ったのは、誰であれ立場にかかわらずそれぞれがそれぞれの方法でもって向き合い声を上げる、みんなが、みんなで、やればいいじゃないか、という極めてシンプルなことだった。
高橋さんの言葉の書き起こし全文を、貼っておきます。ぜひ読んでみてほしい。