2024.01.08
映画初めは目黒シネマ。『トリとロキタ』、『CLOSE』の二本立て。どちらも公開時に気になってはいたけれど見逃していた作品だったのでさすが目黒シネマ〜という気持ちで嬉々として出掛けて行った。どちらも良かったのだけど、CLOSEが特に素晴らしく、主演の少年と画が圧倒的な美しさで、あぁやっぱり映画というのは表現というのはこうでなくては、と思わせてくれる一本であった。
余韻に胸を打ち振るわせながら恵比寿まで歩き、一駅電車に乗って青山ブックセンターまで。本当は先月の上京時に合間をみて行きたいと思っていたのだけど叶わず、今回ようやく。本屋に行くとあぁ買いすぎた、と思うのが常なわけだけれど、今回はたぶんいままででいちばんたくさんの本をいっぺんに買ったのではないか。両手で何冊もの本を抱き抱えるようにして店内を歩き回り、エコバッグを忘れてきていたので、袋をお願いしたら店員さんが二重にした紙袋に入れてくれた。帰り道、重たい紙袋に指を痛くしながら、なんというかわたしはこれまでちょっとかっこつけて本を選び過ぎていたのではないか、これからはもっと素直に謙虚に愚直に本を選ぼう、というようなことを思ったのだった。さまざまなジャンルのたくさんの本。血となり肉とする、嬉しい。
去年はあまり本を読まなかった一年だったなと思うけれど、年末に読んだジム・クレイスの『死んでいる』がとても良かった。なんというか、凄いななんだこの小説は、とずっと思いながら読んだ。知らない文体に出逢うことそれ即ち知らなかった世界と出逢うことであり、その喜びというのはとても大きく、幸福を感じるのだった。最近読みはじめたマヌエル・ゴンザレスの『ミニチュアの妻』も同じような文脈でとても良く、そしてエンターテイニングという意味で面白い。リディア・デイヴィスはこの数年で一番好きな作家のひとりだけれど、彼女に通じるものを感じて、こんな書き手がいるのかという驚きと興奮とともに読み進めている。白水社の海外文学を最近何冊か買っているのだけれどまったく外れがなく、なるほど音楽でいうレーベルみたいなものよね、と思う。
前に働いていたお店に顔を出して、とても久しぶりに服を買ったりもした。古着のニットカーディガンと、信頼しているひとたちが手間暇をかけて丁寧に作った世にも美しいウールパンツ。とても良い買い物をした。
それにしても東京にくるとあっという間にお金を使ってしまうので帰ってくる度にびっくりしてしまう。本を買い映画を観、友人たちとの外食、ひとりで街をふらふらしているときに一息つくためのお茶代、その他生活に必要なちょっとした雑貨や日用品などなど。東京にいたとき、これらに加えて家賃を払い、その上で制作費等を捻出していたのだからいまにしてみれば本当によく生活していたなとまったく他人事のように思うのだった。
11月の上京時そういえばなんだか自分がちぐはぐのように感じて(山での暮らしと東京の空気とのギャップみたいなものにたぶん違和を感じていたのだと思う)ここにもそのように書いたけれど、その感覚もあっという間になくなったな。例えば今回は移動含め5日間という短い時間だったけれどとてもたくさんのひとたちに会った。毎日外に出掛けた。こんなことはずっと東京にいたらおそらくないはずで、なんというかふだんこちらにいないからこそ会っておこう、とか、行ってみよう、みたいな気持ちになるのだと思うから、メリハリが付いてよいのかもしれないなと調子よく思う。
しかしですよ、山での暮らしにすっかり慣れてしまったいま都内を歩いていると、自分はもうここに住むことは出来ないというかないだろう、という気持ちが湧いてくる。複数の拠点のうちの一ヶ所あるいは一時的な生活ということならともかく、ここに自分の安住の地を据えるということはおそなくないように思う。とかいってひとたび戻って暮らしはじめたらまたすぐに慣れてしまうのかもしれないけれど、どうなのだろう。でもそれはやっぱり自分という存在が最も望み最も心地良く暮らせる解ではないような、つまり、ここだと思う、思える場所はきっともっとどこか別にあるのだろうという気が、いまはしている。
そうして新横浜の駅に着き、予約していた新幹線のチケットを発券しようとすればなんときのうの日付で予約をしていた。わたしにはどうしてもこういうところがある。今さら驚きもしないのだけどそれでもうんざりというかなんだか脱力してしまう。こういうことでわたしはこれまでにどれだけの時間や労力や金銭を無駄にしてきたのだろうか。しかし過ぎたことを考えても仕方がないので水に流す。駅でチケットを買い直し、窓側は空いていなかったので通路側の席から窓の外を見やる。快晴。家に帰ったら少しずつ今年をはじめる。