2022.04.28 忘却

シャワーを浴びよう、と思ったのに一度デスクに座ってしまったらもう立てなくて、さきに朝食にすべきかなど少し逡巡をしたあとでとりあえず日記でも書くか、といったあんばい。今日は涼しい。

最近、朝ほんの少しヨガと、ほんの少し冥想をしている。もう二週間くらいになるだろうか(島に行っている間は休んだ)。案外するすると続いている。やらないと気持ち悪く感じるようになってきたらこのまま定着していくのかもしれない。

おとといの夜、お風呂で湯船から出て体を洗っているときふと気がついたことがあり、降って湧いたように訪れたその考えにとても、とてもはっとした。しばらくそれについて考えて、あぁこれはあとで書き留めておかなくちゃ、と思ったのに、出る頃にはすっかり忘れて、いまはもうその内容さえ忘れてしまった、ということに、きのう、日記を書いてアップしたあとに気がついた。その考えがなんだったのか、ずっと思い出そうとしているのに思い出せない。ついさっきまで覚えていたはずの夢の内容を思い出せない感覚に似ている。夢をすーっと忘れてしまうあの感覚は夢だけに適用される特殊なものだと思っていたけれど、案外日常の中でも頻繁に起きているのかもしれない。気づかないだけで。

忘れることの不思議。

わたしはけっこう、数秒前にやろうと思っていたこととか、忘れる。席を立ってなにかを取りに行ったのに、他のことに気を取られているうちになにを取りに行ったのか忘れたりする。そのくせ、子どものころ、どこで誰と誰と誰がいて、どんなことがあって、誰がこんなことを言った、とか、そういう本当に細かな変なことを覚えていたりする。

わたしには記憶がないことがあって、あれ、あんなことがあったはずなのに覚えていない、いまのいままですっかり丸ごと忘れていた、と気づいた瞬間があった。それは実家の玄関で、荷物を受け取ったときだったのかなんだったか、わたしは家にひとりで、つっかけを履いて玄関の扉を閉めた。たぶん午前中だったのだろうか、玄関の扉のガラスの小窓から差し込む光がなんか綺麗だった。その瞬間のことは、というか、その瞬間の衝撃というか、「あれ?」というあの奇妙な感じを、おぼろげに覚えていて、でも忘れていたことに気づいてもなお抜け落ちている記憶の具体的な内容というのはうまく思い出せない。いまでも。思い出したいとも思うけれど、思い出すのが怖いとも思うし、そもそも思い出す必要があるのか、とも思う。それでも「知りたい」みたいな気持ちが心の中には確かにある。これはなんだろう、と思ってみれば、知り、理解し、克服したいという欲求のように思う。

だけど“これ”を思い出せないことと、日常の中で日々どんどんいろんなことを忘れていって、思い出すことも思い出さずに時間が過ぎてやがて忘れ去られていくことと、それはどう違うのだろう。ということをきのう考えた。

桐野夏生さんの『燕は戻ってこない』という小説をこの数日読んでいて、きのう読み終えた。貧困に喘ぐ女性がお金のために代理母になるという話。戦火の中で、ウクライナの地下鉄で生まれた赤ん坊の写真をツイッターで見て、それはとても感動的なものとして扱われていてわたしも同じように受け取ったけれど、その少しあとに、ウクライナの女性たちには代理母がとても多く、搾取の構造があるということを知り、あぁあの赤ん坊はもしかしたら代理母の子どもだった可能性だってあるのだ、ということに思い至ったとき、途方もない気持ちになった。いまも、なる。生殖にまつわる選択肢がだんだんと増えてきた中で、代理母というのもそのうちのひとつくらいにしか思っていなかったけれど、代理母出産は貧困状態にある女性たちへの搾取の側面が大きいということを知って、ちょうど興味を持っていたところだった。

とてもなんていうか気持ちが悪い、グロテスクだと思った。小説がというより、映し出されている現実が。わたしは将来子どもを持ちたいかどうかについて、いま現在は欲しいと思っていないけれど、だけど将来のいつかの時点で欲しいと思う可能性はある、と思っている。さまざまの意味でどうなるかはわからないから自然にお任せしようと考えてきたしいまもそう思っているけれど、でも初めて卵子凍結について調べた。実際に必要になるかどうかわからないもののためにあれだけの手間隙とそして何よりお金をかけられるひとはいまの日本では本当の本当にひと握りだろう、という結論を得てブラウザーを閉じた。だけどわたしがいつか子どもが欲しいと思ったとき、あのとき卵子凍結しておけば、と後悔する可能性だってまたゼロではないのだ。そしてその後悔をしたとき、わたしは代理母という“システム”を用いてまで子どもが欲しいと望むだろうか。最近観たNetflixのドラマにも、卵子提供と代理母による出産を経て子どもを得たシングルマザーが登場していた。

わたしも十代や二十代までは自分も普通に結婚していつかは子どもを産んで育てるのだろう、と当たり前のように思っていたけれど、三十を過ぎて、ひとりということも全然あるな、とか、あるいはこれまでとは違ったパートナーシップのありかたもあるな、とか、そういうことを思うようになって、そうしたときに「子どもが欲しい」という欲求にたいする“わからなさ”に気づいた。どうしてみんな子どもが欲しいと思うんだろう?周りの友達や今年はじめに出産した姉にもそれを問うてみても、しかしあまり明確な回答を得られたことはない。あるいは明確な理由なんてないのかもしれない。それは複雑で複合的なものかもしれないし、もっと感覚的(本能的?)なものなのかもしれない。あるいはその両方がさらに複雑に折り重なった結果なのかもしれない。いままで存在しなかった新しい生命を誕生させるのだから、そんなに簡単に言葉に出来ることではないだろう、と思う一方で、でも言葉にもできないよくわからないその、それ、によって、そんな大それたことをみんなやってるの、と思わなくもない。いつかわたしにもわかるときが来るかもしれないし、来ないかもしれない。

さよこさんからきのう小包が届いて、手紙とポストカードと、それから立派な文旦がふたつと、お裾分けの甘納豆が入っていた。隅から隅までわたしの好きなものばかり。くだんの小説にグレープフルーツのサラダを食べる描写があり、わたしはきのうの朝柑橘のサラダが食べたいなと思いながら目を覚まして、お昼にちょうどサラダを用意していたところだったから、早速文旦を剥いてサラダの上に乗せていただいて、そしてそうしながら手紙を読んだ。二回読んだ。手紙はいつもらっても嬉しい。好きな人からだともっと嬉しい。そういえば最近祖母に手紙を出していない。何日か前祖母からSMSが届いてとてもびっくりして、聞くと母に「特訓してもらったの」と言っていた。でもそれも数通で途絶えてしまった。きっと疲れるのだろう。さよこさんにもらったポストカードを送ろう。今日は甘納豆でマフィンを焼く。抹茶味。