2022.06.07 雨は上から言葉は下から

本を読めば読むほど身体の中に言葉が溢れて溢れて溢れる、今日は友人と家の近所でお昼を一緒に食べようといって待ち合わせたのだがときどき行くヴィーガンのカフェも駅前の美味しいらしいがまだ行ったことのない蕎麦屋も揃って休みだったので仕方なく大通り沿いのカフェに入って彼女はパスタをわたしは巨大なバゲットのサンドイッチをそれぞれ食べて、それから川沿いを散歩した。彼女と話したことそして思ったことをいまここに書こうとしたけれどうまくいかなかったので消した。彼女は河原沿いの道をとても気に入ったようで、緑が多くていい、いろんな鳥の声が聴こえていい、といって喜び写真に撮っていた。わたしはそれを見て嬉しい気持ちになった。途中からさーさーと細かい雨が降り出して、気持ちが良くて私も彼女も傘をささずにそのまま隣の駅まで歩いた。改札に入っていく彼女を見送ったあと、駅のすぐ近くにあるちょっと美味しいパン屋にわたしは巨大なバゲットを食べたばかりなのにも関わらずするすると吸い込まれモンブランのパン(ランチについてきたデザートも小さなモンブラン風のケーキだった、わたしはモンブランがとても好きだ、わたしの父もモンブランがとても好きだ)とチョコレートがたっぷりかかったデニッシュのパンを買った。そのあと郵便局に行って荷物を出し、八百屋とスーパーに寄って野菜や果物を買って帰宅し、少しだけ仕事をしてお茶を入れてそれらのパンたちをもしゃもしゃと食べ、そして明日は歌の仕事が入っているから曲の予習をして少し練習をすればちっとも思うように歌えず結局数時間をそれに費やした。歌というのは本当に難しいものだけれど、この一、二年は歌を歌う時間が圧倒的に減っていたから当たり前だけどやっぱり下手くそになっているのだった。またこれからコツコツやらなくちゃ。夏か秋にはレコーディングをしたい。

そう、そうして、それで、言葉が溢れて溢れて溢れて、あり続ける、そうしてそのうちのごくごく一部をこんな風にして書き留めたり、あるいは曲にしたり、あるいは誰かに話したりとか、まぁして、するわけだけれど、でもただ自分の中にだけあった言葉は、あったことさえ気付かずにもしくは忘れてあっという間に消えていった言葉は、どこに消えて、そしてそもそもどこにあって、なんで、なんだったのだろうか、とか、そういう常々思っていることを、さっき久しぶりに読み返している川上未映子氏のそらすこんを読みながら、内容を全然覚えていないことに驚いてわたしはいったい何を読んでいたのだろうかと思いながら、パン食べたし夕食は要らんやろと思っていたのに結局ちょっとなにか食べたくなって作った軽めの夕食を食べながら、ほんのちょっとだけ残っていた白ワインの最後を飲みながら、頭の奥の方でまたぼんやりと思ったのだった。

ライトハウスという本屋の関口さんが、日本に暮らす人々が日に日に貧しくて本は最早贅沢品になってしまった、本屋の自分でさえ年に数冊しか本を買わないとツイッターに書いていて、わたしだって貧乏だけれどでも本はたくさんたくさん買っているなと思って、不思議だなと思う。

歌の仕事が合間あいまに入っているおかげでどうにか食いつないでいるけれど、でもそれだっていつあるかないかわからないし、貯金と呼べるほどのものでもないそれが底を着くのもそう遠くないであろう、仕事とか生活とか、ここ最近はずーと考えているがぐるぐるぐるぐるとするばかり。あっという間にもう夜だけれど今日はまだまだやることがあるのだ。

姉から久しぶりに家族LINEではなくわたし個人宛に連絡があり、なにというわけでもなさそうだけれどやっぱり少し育児にときどき疲れることもあるようで、わたしは彼女にいろんな想いや言いたいことがあるけれど、でもそういうことはぐっと飲み込んで、そうして理解のある妹のふうを装っている。でもそれは別に嘘ではなくて、そういう一面だけを切り取っているということなんだけれど、でもそれはやっぱり少し嘘なのかもしれなかった。

友達から着信が入っており、だけどそれに対するなんのフォローのメッセージもなく、それはかけ直せよという無言の圧力なのだろうか、もしもかけ直さずにずっと放置したらば彼はどうするのだろうか、と思うけれどわたしはたぶんこれを書き終えたあとにかけ直すのだろう。電話が相変わらず嫌い。誰もかけてこないで欲しい。いちばん好きなひと以外。

言葉が次から次から次から、止めどなくて、ちょうど今日彼女と浴びたシャワーのような雨のよう、と思うけれど、言葉上から降ってくるものというよりもっとこう身体の下の方から上方向に向かって湧いてくるようなイメージ、それは音楽に対しても同じように思っていて、だから曲が降ってくるとか降りてくるみたいな表現をするひとのことをずっとうさんくさく思っているわたしは。