2022.06.06 濁流

今朝はシナモンロール風のスコーンをまた。最近好きなやつ。いつもくるくると細長く巻いたのをナイフでカットして焼いていたのだけどそうするとカットした断面が潰れてしまいどうにもロール感が出ないので今日は生地を小さく分けてからそれぞれに小さくくるくるとしてみたのだが思うほどのロール感は得られず。きのうのスコーンに全粒粉を入れたら美味しかったから今日も少し入れればやっぱり美味しくて。最近はなんとなくカフェインを控えており今朝も穀物コーヒーを飲んでいたけれどやっぱりコーヒー飲みたいなと思って席を立ってコーヒーを淹れてみればやっぱりやっぱり美味しくて。まだ6月だというのに腕を蚊に刺された。それも二箇所も。

多摩川に架かる橋を渡りながら下を見ればいつもよりカサを増した茶色い濁流がぐんぐんと流れていくのであって、でもわたしはイヤフォンをしてAdrianne Lenkerの”Zombie Girl”を聴いているからごうごうという音がしているのかもしれないし意外と静かなのかもしれないその川の音は耳に届かない。なんとなく意外と静かなような気がした。普段は水のないところに生えた背の高い草たちがなぎ倒されて水浸しになっていて、河原の淵ぎりぎりまで茶色が満ち満ちながら流れていって、水面はなんかこう、ちょっと渦になっているようにも見えて、そんなのを見ながらなんかこの景色も悪くないなという気持ちになって、いまの部屋に引っ越してきてから雨で増水した多摩川なんて何度も見てきたはずなのにそんなふうに思うのは初めてでそのことに気付いてあれ、と思った。

この間二度目のカウンセリングに行った。わたしは臨床心理士のその女性のことを、名前とそこで働いているひとだということ以外なにも知らなくて、だから二度目に行ったら自己紹介をしてもらえませんかとお願いしようと思っていたけど結局それは口から出ないまま、訊かれたことや思いついたことをぽつぽつと話し、そのひとは会話が途切れると「そっかぁ、、、」と言い、ときどき「〜な気がします」という言い方をした(例えばこうこうこういう経験をした方はこうこうこういう傾向がある方が多いような気がします、というように)。わたしはあたながどういう気がするかが聞きたくてここに来ているわけではないのだけどな、と思う、でもじゃぁなにを求めているのかと考えてみればそれもなんだかぼんやりしていて、というかこうして脈略のないことをぱらぱらと話すことでなにかが良くなるというイメージが持てず(わたしは全体の流れや向かう先のイメージが持てないことをずるずるとやることがとても苦手というか嫌いというか厭)そんなことを時間の最後に問うてみたところ「んーこれも難しいんですけど」と言ってしばらく目をぎゅーっと閉じて下を向いて考えたあとに「それも〇〇さん(わたしの苗字、苗字で呼ばれることが最早不慣れであるので居心地が悪いが下の名前で呼んでくださいというのも変のような気がして黙っている)次第っていうか、ご本人がどうなりたいかっていうことだと思うんですよね」と言うのでわたしはまじかよ、という気持ちになって、でも一応どうなりたいかについて考えてみたが全然思い浮かばずしばらく沈黙した後に思いついたことを話すと彼女はその日一番の頷きと共に勢いよくメモを取っていた。家に帰ってからその一連のやり取りを振り返り、自分が自ら選択し望んでそこに行っているにも関わらず人任せな態度であり続けていることについて反省をした。わたしにはそういうところがある。どうしてもいろんなことが他人事であり続けている、こんなにも自分事でしかない事柄でさえ。もっと積極的に関わるべきなのかもしれない、ということを思う。一方でそうした時間に対し、電車を乗り継いで出掛けて行き、税込13,200円というお金を払いそうしてまた家まで帰ってくるだけの価値があるのだろうかということも同時に考えていて、自分が“コスパ”的な尺度でこのことを測ろうとしていることに違和を感じたりもするのだった。一応来月の予約も入れて帰ってきたけれど、どうかな。でももしこれを続けて何にもならなかったとしても、何にもならなかったという結果を得ることには意味があるような気がするというか、その結末にわたしは一種野次馬的な興味があるのだった。やっぱり自分のことがどこか他人事なのかもしれない。だからわたしはなんか、ずっとこう、自分が自分の中にないような感じがあるのかもしれない、あるいはその逆なのかもしれない。そしてもしかしたらわたしはこういう感覚をこそカウンセリングで話すべきなのかもしれない。わたしがまず彼女を信頼して心を許すまでに何十万円という費用がかかるのかもしれない。その意味を考えるがやっぱりよくわからない。

言葉が次々溢れて溢れて流れ出ていく、これはまさに増水した多摩川の、泥水の流れのようじゃないか、と思う、いま。