2023.11.21 湯船

忘れるというのは通常、もう思い出さなくなったあるいは思い出せなくなった状態のことを言うと思うのだけれど、例えば対象や出来事を思い出したとて何ひとつ感情を想起しなければそれは忘れたということになるのではないか、ということを今日は考えた。

許すということと忘れるということについて長らく考えている。許せないと感じていた対象や出来事を許すよりも先に忘れた場合、それは許したということになるんだろうか、というようなことについて。これについてまだ答えはわからないのだけど、たぶんそういうことになるのではないかという気がしている。だって忘れてしまったら許すもなにもないのだし。しかし許すというのも難しい言葉だな。許容、受容、あるいは妥協?は違うか。忘れるのが先か許すのが先か。あるいは同時か。許すとは、そして忘れる、とは。

そういうことをさっき湯船のなかで考えて(お風呂に入っているときがいちばんさまざまの思考が巡るような気がする)そうしてお風呂から出たら今度は、なにかを期待したり信じたりするにはわたしあるいはわたしたちはあまりに傷つき過ぎているのではないか、ということをふと思ったのだった。いろんなことが相変わらず怖くて、そして日々は相変わらずさらさらと流れ去っていくばかりで、ほんとまいったな