2024.08.06

歌詞を書くとき、それが日本語の場合もあるけれど英語で出てくることの方が多く、以前がどうだったか思い出せないけれど最近はもっぱらそうで、そのことをなぜだろうかと考える。わたしの英語レベルなんて日常会話くらいのもので単語や言い回しも大してたくさん知っているわけではないので辞書が必要なことも多く日本語と比べると圧倒的に不自由であるはずなのに。やっぱり日頃聴く音楽のほとんどが英語で歌われているものだからだろうか。しかし日本語で言えることと英語で言えることというのには違いがあり、(それを明確に言語化することは難しいというかちゃんとそれをしようと試みたことがないので「違いがあるように思われる」というのが正確かもしれない)単純にそのことが関係しているのかもしれない。しかし当たり前に日本で日本語を話すひとばかりに囲まれて暮らす日々で英語を話す機会というのはほとんどなく、にも関わらず脳内の思考あるいはときどきこぼれる独り言が英語なこともあるのだから不思議なことだ。また英語圏にしばらく暮らしたいなと最近はそういうことをよく思う。何の話だっけ、そう、歌詞、でも最近は日本語と英語の混ざったものがなんとなく面白いというか興味があるというかしっくり来ている感じがするのでそのバランスを探り探り、言語の境界について考えている、嘘、べつに考えてはいない、考えたら面白いかもしれないといま思っただけ。なんでこんなことを書き始めたのかといえばさっきリディア・デイヴィスの『話の終わり』を読んでいて薄ぼんやりと言葉について考えていたからで、でも実際具体的になにをどのように考えていたのかもう思い出せなくなっている。思い出されるのは「歌にはなり得ない言葉」という言葉だけ。そんなもんあるんか、と思うけれど、どうなのだろうね。わたしという個体の中において、ということなんだろうけれど、でもそれだって絶対的に固定されているはずはない、と思う。それにしても言葉というのは次から次へと脈略なく掴みどころもなく、歌にせよ小説にせよ映画にせよ何にせよ、それを用いた表現というのはつまるところその瞬間の言葉をいかにして捉えることが出来るか、つまるところそういうことをしているのではないかとさっきふと思ったのだった。

かんかん照りの日が続いていて今日は久しぶりに曇り。いつぶりかわからないくらい久しぶりに雨が降るかと思いきや、降りそうで振らない、空は重たそうだけれど。湿度が高い。わたしはおととい焼いたオートミールクッキーをその前の日かさらに前の日にココナッツミルクとカシューナッツで作ったアイスに添えて食べている。健康な振りをしているが糖質には変わりがない、しかしその事実は見ない振りをしている。精製された砂糖よりはよっぽどマシだろうとは思うけれど程度のほどはわからないものね。相変わらず臭覚は戻らず(嗅覚と臭覚の違いについて数日前調べたけれど大した違いはないもよう、この場合なんとなく臭覚の方がしっくり来る)。今日は暇だから映画でも観ようかな。この頃は気持ちが沈んだときに気の重い言葉ばかり書いていたので、たまには何でもない気分の何でもないときに書いてみようという試み。