2025.04.20
はなみずきに小手毬、木工薔薇、最寄駅まで歩く道々、アスファルトのわきでさまざまの花が咲いているのをみた。小さな蕾のような薄いピンク花はなんという名前だったか。いつか勤めていた会社の仕事で小さなフリーペーパーを作っていたとき、写真に撮ったことがある。
そんなわけで数日前から久しぶりに東京。車にとりあえず必要な機材関係とギター2本、本と服の一部、その他諸々の入った段ボールを積めるだけ詰め込んで朝の10時前に家を出、着いたのは夜の7時半頃だった。休み休み9時間半かかったことになる。これまであまり長い距離を運転したことがなかったのでどんなもんかと思っていたがなんというか思ったよりぜんぜん大丈夫だった。車の中というのはとてもパーソナルな空間だからたぶん性に合っているんだろう、最近はめっきり音楽が聴けなくなっていたけれど運転しながら大きな音でうるさい音楽をかけたらすごく楽しくて、なるほど環境、と思ったのだった。きのうもきのうで往復3時間ほど運転してこれからしばらくの間住む千葉の部屋まで荷物を運んだ。運転ばかりしている(しかし都内の運転はちっとも楽しくない、自転車もバイクも歩行者も多いし道は細いし一通ばかりだし。そして道を歩きながら都内で車を持つには駐車が上手くなくてはいけない、ということに気づく)。
27日のライブの予約がぜんぜん来ていないようでなんというか。困ったな、とも思うけどまあべつに、とも思うし、それについてどう感じたらいいのか、どう感じているのかよくわからない。実際のところあまりなにも思っていないのかもしれない。
この間沖縄で久しぶりにものすごく少ない数のひとの前で演奏をした。せっかく沖縄に来るなら、と声をかけてもらって直前になって決まったライブで、わたしはその日のその時間をどう受け止めたらいいのかわからなくてわからないまま歌をうたって、だから逆にとても歌に入っていくことが出来た、というかそうするしかなかった、でも観ていたひとにとってはどう感じるものだったのかよくわからなくて、わからないまま、宙ぶらりんだった。
観にくるひとの数というのは実際なにを意味するんだろうかあるいは、
サリンジャーは表舞台から姿を消した後も書き続けた作品を誰かに読んでほしいとは思わなかっただろうか、わたしは例えば本当の本当に自分のためだけの作品を作ったとしてではそれを誰にも聴かせず自分だけのものもして存在させておくなんていうことがあり得るだろうか、とかあれこれ考えていればよくわからなくなって書いては消し書いては消し、いつものことだ
ようやく髪を少し切り、久しぶりに目にする賑やかな街を歩いてもなにに心を惹かれることなくまっすぐ家に帰った。