2025.05.09

そうして何日かが過ぎ、わたしはいま東京。またあれこれをスーツケースに詰め、その他あれこれも車に積み込み、荷造りばかりする人生、と思う。でもそれを自分が自分で選んだのだ、と考えながら冷たい雨の降る夜の中を淡々と車で走った。久しぶりにboygeniusをかけた。

そうしてライブも舞台も終わったわたしは次々ひとに会っている。地元の友達たち(来月はじめに第二子の出産を控えるわたしの親友ははち切れそうなお腹でひーひー言いながら、ではないがまさにそんな様子で待ち合わせのお店に現れた、綺麗な淡いサーモンピンクのワンピースを着て)、サーカスの加藤家、そうして今日は家でゆっくりと思っていたけれど懐かしいひとから連絡が来たので会うことにして下北沢に向かっている。

きのう、べつの親友が誕生日で、ふだんあまりそういうことはしないのだけど何となくそういう気持ちになったのでメッセージを送った(わたしよりも誕生日が早い彼女は毎年わたしより少し早く歳を重ねる、37にもびっくりしたけど38にもびっくりするね、でも慣れてもきたね、と書いた)。

例えば、帰り道にふと二十代の頃に好きでよく聴いていた曲を鼻歌する。そのバンドはとうに解散してしまって、メンバーがその後どうなっているのかはよく知らない(ギタリストだけは新しいバンドをはじめた様子を最近SNSで見かけた)。そうして思う、この、あまりにささやかな営みというのはなにを意味するんだろうかと。バンドがあまり売れないままに解散しても、その後メンバーが表立った音楽活動をしなくなっても、それでも彼らの音楽は残る、残りつづける?という考えが浮かんで瞬間でいや、と思う。音楽にしろ何にしろ、それはもっともっと本当にささやかな些細なもので、それはそうしてただそこにあって、ときどきふと思い出されてはまたすぐに忘れられて、ただそれだけの、本当にそれだけのものなのではないか、そういうことを思ったのだった。

そうしてわたしは明日またまる一日をかけて車を運転し和歌山に帰る。