2025.10.20
大切な友達が死んだ。
しかし何年も会っておらず連絡もとっていなかったのに大切な友達と呼ぶのもずいぶんと身勝手なことだと思う、それでもやっぱり大切な友達だったし、きっと彼もわたしのことを少なからずそう思っていてくれたはずだと、そう思う。
おとといが葬儀だった。身内だけの式とのことで、それが何時どこでどのように行われたのか、わたしはなにも知らない。夕方外に出ると空が真っ赤で、ほんとうに真っ赤で、振り返ったままたちどまって、彼は今ごろこの空に溶けていっているところかもしれない、とふと思った。
彼をよく知る友達たち、10代20代といつも一緒にばかみたいに遊んでいたみんなで集まった。最近もよく会う友達もいれば、本当に久しぶりに会う友達もおり、それでもみんなでそうして同じ席につけばそれぞれはあの頃とずいぶん違えどやっぱりあの頃とあまり変わらなくて、亡くなった彼の話やぜんぜん関係ない昔話やばかみたいな話や、して、さんざ酒を飲み、笑い、泣き、そうしてそれぞれに帰っていったのだった。
なにも、変わらないのだ、毎日は。そのことをひどく残酷なことだと感じる。だけど、どうしようもない、まったく、ない。当たり前なんてないということを、会いたいひとには会えるときに会っておかなくてはいけないということを、そういう類のことを、彼が教えてくれたなんて思わない。そんなのは、残されたものたちの都合のよい解釈だ。もちろんそれだって決して否定するものではないけれど、でもわたしは、彼の死からなにか教訓のようなものを得たり、したくはない。なぜか?なぜだろう。ただ悲しみ、悼み、恋しく思い、しかし時と共にだんだんと薄れ、それでもときどきは思い出して、勝手に死んだことに対して心のなかで文句を言い、名前を呼んでは話しかけ問いかけ、そんなふうにして、彼とともに日々のなかにありたい、それでいい、そういうふうに思う。
ばいばい
わたしはとてもかなしくてとてもさみしいよ
忘れることもあると思うけど、でもずっと覚えてるよ
ばいばい