2025.10.21 なんにもならないなることなんてない

生きていてもべつになんも良いことないよなーということを、いつだったか、恐らく数年前、よく思っていた。今月はうっかり間違えて引き受けてしまったまったく気の進まない仕事を、引き受けてしまった以上やはりやらなくてはならず、それが今日ようやく終わって、友達が死んだり、まあそれは関係あるかないかわからないけれど、とりあえずビールを飲もうと思って目についた良さそうな香港屋台料理の店のカウンターで生ビールを一杯とほんの少しだけ食事も頼んだけれど、頼んだあとにまったくお腹が空いていないことに気がついてだけどちゃんとぜんぶ食べて、それから久しぶりに少し夜の街をぶらぶら散歩というか徘徊し、煌々と灯りのついた薬局にああそういえばと思って寄って、最近気分転換に20年ぶりくらいにパーマなるものをかけたのだがまったくうまくスタイリング出来ないのでそれ用のスタイリング剤なるものを買うなどし、駅の階段をずーと下って電車に乗り、香港料理屋で斜め後ろの席のサラリーマン風グループがオアシスの話をしていたのでオアシスを聴きながら、そうしてもう今日はこれはハーゲンダッツのクリスピーサンドだべつに大して食べたくもないけど今日は買って帰ろうと思い最寄りの駅を出てから2軒コンビニに寄ったけれどどちらにも売っていなかったので、仕方なくパルムのプリン味を買ってふらふら家まで遠回りして食べながら歩いて帰った。

友達の葬儀があった日の夜、友達とみんなで集まったとき、何年かぶりに会った友達に、彼が死んだという報せをきいたときにあなたを思ったと言われた。報せをきいたとき、ああわたしじゃなかった、とわたしは思った、とわたしは答えた

最近はもうめっきり死にたいと思わなくなった、ということはやはりあの頃のあの死にたさというのは病的ななにかだったのだろうそしていまはある程度立ち直ったあるいは乗り越えたのだろうということだとは思うけれど、でもだからと言って積極的に生きたいかと訊かれると、答えに詰まる。死んだ友達の分まで生きなくちゃなんてことは露ほども思わない、しかし、漠然と生きなくちゃと瞬間的にせよ思った、それは不思議なことだけれどやはり確かであり、あと、死んだってなんにもならないとも思った、べつに彼だって望んで死んだわけではないと思うけれど、彼がどんな気持ちで死んだのかはしかし誰にもわかりようもないのだけれど、ほんと、なんで死んだんや。死んだところでなんにもならない、しかしでは生きたとてなにになるのか?

今朝はだけどだけどだけど、キッチンに立っているとき、阿部芙蓉美の町という曲を久しぶりに口ずさんでおり、きみのこころはいろあせない、どんなかなしいことものりこえていけるから、というその歌詞に、やっぱりどうしたって確かに救われた気持ちになって、なんかほんともうかんべんしてくれよなにもかもなんなんだよ、とわたしはいまそういう気持ちで