2024.12.14

相変わらずふとしたときに訪れる記憶の断片のほとんどは恥か後悔(恥それすなわち後悔を意味するんだろうかときのうかおとといの夜考えた)。しかしそうでないものもある、そしてその分類について考えたとき、そうでないそれらの記憶というものは恥や後悔という感情を知るよりももっと前の幼い頃のものなのではないかという仮説をいまこれを書きながら。例えば今日は朝からお弁当を持って出掛けることになりわたしはとても久しぶりにサンドイッチを作った。石油のストーブの上で低い温度でゆでたせいかひどく剥きにくいゆで卵の殻を時間をかけて少しずつ剥がしながら思い出していたのは幼稚園の年長さんのとき、サンドイッチに挟む卵のタルタルを作るさい、ゆで卵の白身の部分と黄身の部分とを分けて白身は刻むか、あるいは黄身と一緒にそのまま混ぜるか、という二択を先生がわたしたち園児に訪ね、そんなこと幼稚園が知るはずもないと今になれば思うのだけれど、ほとんど全員が前者で手を挙げたなか(おそらく誰かひとりが勢いよく手を挙げそれにほかのみんなも釣られた形)その日は編み込みの二つ結びに前髪をピンで止めておでこを出していた女の子が後者でただひとり恐る恐る手を挙げ、先生が正解を告げたときにやったー!と拳とともに声を挙げた、というただそれだけの記憶。彼女の名前はなんと言ったか、わたしは彼女がそろそろと手を挙げたときの表情をとても鮮明に思い出すことが出来る。彼女に関するわたしのもうひとつの記憶はわたしと彼女が何かしらの喧嘩をしたあとに彼女がわたしに対して放った「泣かせたくせに」という言葉。何を忘れ、何が残されるのか。しかし忘れたと思っていても保存されているものもあるし、忘れたことにも気付かないまま忘れている事柄も多くあるだろうし、結局なにもわかりはしない、ということになるね。だけどわたしはいつも過ぎ去ったもの、失われたものにこそ興味をひかれ、そうしてそれは自分自身の人間性や作品に好むと好まざるとに関わらず割に大きく影響しているように思う。なんというか、そういう“ネイチャー”なのだな、みたいなことを最近は思う。

ここのところは日々がひどく静か。おそらく曲を書き始めたことが影響していると思われるのだけれどこれまでにあまり経験したことのない静けさ、自分という容れ物の内部がやけに静かで凪いでいる、というような感覚で、不思議に思ってみている。とかいって夜な夜な以前一度見たネットのドラマシリーズを見続けたりなどもしておりそういうときには自己嫌悪を感じるけれどなるべく感じないように努めながら音楽との付き合い方を相変わらず模索している。少しずつ、本当に少しずつ、一日に一行とか二行とかずつ、曲を書き進めている。冬晴れの美しい午後、光と風に包まれている。