2025.01.09 年始

時間があると思っていた“年始”はあっという間に過ぎ去り、何となく急いた気持ちで過ごした年末年始を受け流すように一日だけぼんやりした末にわたしはまたバタバタと東京にやって来たのだった。

7日にもなれば年末年始のラッシュは過ぎ去っているだろうと思い込んでいたのだけれど名古屋からの新幹線はほぼ満席で、すっかり油断していたわたしは自由席にどうにか滑り込み、ギターケースを抱えるようにして座り大きなスーツケースは半分通路にはみ出したまま新横浜までの一時間ほどを、本を読むことも眠ることも出来ずただ音楽を聴きながらぼんやりと過ごした。こういう場合、つまりたくさんの荷物を持っている場合、通路側の席以外には座る術がないなと考えながらたくさんのひとの頭の向こうにほんの少しだけ見える窓の外の景色を眺めるともなく眺める。

髪の毛が伸びっぱなしになっていたのできのう美容室に出掛けて行き、少し整える程度のつもりだったのに思いの外短くなってしまい、いつもと違う久しぶりの友人のところに行ってみたにも関わらず例によって今回も納得のいく髪型にはならず、もうショートヘアはやめて髪を伸ばそうとこれまで髪を切るたびに思ってきたことをまた思う年始。しかし一度ショートにしてしまうと上手に伸ばすのが難しく、その過程ではどうしてもカットが必要になるので。困ったことだ。

両親は新聞を取っているので、実家に帰ってくるとわたしも新聞を読む。もう何年も「年が明けたとていったい何がめでたいのですか」という非常に白けた気持ちで年始を過ごしていたので長らく「明けましておめでとう」という挨拶を意図的に避けていたけれど今年は何となくというか、自然と明けましておめでとう、が自分の中から出てきて、少し晴れやかな気持ちでいたのだけれど、新聞をめくっていればアメリカにしても韓国にしても中国にしてもそして日本にしても、どこでもかしこでも目を疑うようなことが起こり続けていて世界はもう本当に終焉に向かっているのではないかという暗澹たる気持ちになった。たいそう憂鬱。一度姉に「ネガティブなニュースばかり見過ぎだ」と言われたことがある。そういうことをわたしにいうひとはときどきいる(何にでも怒り過ぎ、とかもそう)が、リベラルな立場をとる人間にとって、いわゆるポジティブなニュースというのはほとんどないのであって、わたしがなにもネガティブなニュースを好き好んで見ているわけではなく、世の中のニュースのほとんどがネガティブなものだというだけだ。それにしてもトランプが大統領になることで思った以上に世界はまた大きく変容しそうですね、その余波を思うと本当の本当に憂鬱。どこか違う世界に逃げ出したい願望を抑えきれないがしかしそんなものはどこにもないのだった。困ったね本当に。

今年はどんな一年になるのだろうな。自分自身のことでいえは引き続き曲を作り、アルバムを作りたい。いろんなことをあまり考えずに決めずに余白を多く持ち、流れるようにして暮らし生きたいと、いうようなことを何となく思っている。今日は9party。何ヶ月かをかけて作った新しい曲を携えて久しぶりの下北沢。