2026.01.09
とてもよく晴れている。いま住んでいる部屋は東側にベランダがあり、南西にも窓がある。つまり、晴れていれば一日中陽が入り、あたたかく、明るい(夏はとても暑い)。ベランダがこれまで住んだどの部屋よりも広いので、朝ときとぎパジャマのまま出ていって午前中のひかりを浴びる(キャンプとかで使うような折りたたみの椅子でも買って置くのもいいな、と考えている)。あるいは日中、窓を開けて目を細めながら外の空気を吸って吐く。
年明け、友達の家に行くおみやげにキャロットケーキを一本焼いて、まじめに計量をし、クリームのアイシング(クリームチーズではなく、カシューナッツとココナッツクリームでつくる)もサボらずにちゃんと作って持っていったらやっぱりおいしくて、だから自分用にも一本焼き、それをきのう食べ終わったので今朝はとても久しぶりにマフィンを焼いた。ほんとうはオートミールのクッキーを焼こうと思ってつくりはじめたのだけど、ぼんやりしていたのか途中でなぜか間違えて水分が多くなり過ぎてしまったのでマフィンに変更したのだった。母が大きな瓶でくれた柚子のはちみつ漬けを入れた、それから白ごまとカルダモン。爽やかでおいしい。コーヒーも淹れて、ヘニングシュミートをかけて、カーテンを開けた窓からは陽がさんさん、なんて素敵な午後。満ち満ちている。
年明けすぐはなんだかさみしさみたいなものが募っていて心許なかったので、いや違うか、たんに年末に入り切らなかった約束のいくつかが年を跨いで持ち越されて、だから今週はなんだか予定だらけになっていて、いまさらながら少しだけ不安になっている。ひとりの時間がじゅうぶんに確保されないのではないか、という不安。でもそんなのはたぶんきっと杞憂なのだろうね、だって好きなひとたちに会いにいくのだから、おおきな心で楽しめばいいのだ、そしてその、もらってきたエネルギーをまた自分の内に還元すればいいのだ。
そう、そういうわけで、去年のいまごろ、山の中のはなれの部屋でコツコツ作っていた曲のつづきに着手している年明け、無理、ぜんぜん無理、わからない、と思っても、向き合っているうちに糸口のようなものというのは見えてくるので不思議なことだ。それにしても夏以降あんなに気持ちが向かなかったのが嘘みたいに、もう音楽はたぶん作れない作らないのだろうとほとんど確信めいた気持ちになっていたのが嘘みたいに、当たり前にギターを弾いて、ノートに言葉を書いて、いる、まったく、やれやれ、われながら笑ってしまう、でもまあそんなものなのかもしれない、いつまでも、いつになってもいちばんわからないのは自分自身で、だから生きている限りの時間をかけて、自分という生き物のことを知り、理解し、試行錯誤しながらよりよい付き合い方を学んでいく、というのがつまるところ人生なのではないか、ということを考えた年始なのだった。
ニュースのこと、あまりにいろいろあり過ぎて、書こうにも書けない。いつまで続くのだろうかこんなことが。だけどずっと続くのだろうね、愚かだね、苦しいなあ、苦しいよね。言葉で暴力に抗する、そんなことがはたして本当に可能なのだろうか、という疑問が、何日かまえに洗面所でふと浮かんだ。年末年始とひとに会い、アクティビズムについて話題になったりもしたのだけれど、たとえば、なるべくニュースその他を見聞きし、知る、理解しようとする、誰かの言葉や本を読み、学び、考え、それだって立派なアクティビズムだとも思うけれど、でもやっぱりそのさき、自分の外がわとの関わりのなかで、なにができるか、どう関わることができるかあるいは関わっていきたいのか、そういうことなのではないか。いやまあそんなことはわかっている、というか、これまでもずっと考えているのだけど、では具体的にどう、というのがなかなかずっとわからないままでいる。でも今年は久しぶりにまとまった文章を書きたいような気持ちにもなっているし、なにか、よい方法を見つけたい。
目を閉じて、息をすってはいて、すってはいて、もう一度すってはいて、目を開けると日差しのなかで加湿器からでる白いけむりがふわふわと立ち上っている、午後をはじめる、いまから。