2023.05.15
相変わらず家にいると固形物を食べたい気持ちにならず(週末は結局両日出掛けてひとに会いよく食べほどほどに酒も飲んだ)数日前なんとなくスーパーで目が合ってかごに入れたキャベツと、玉ねぎと少しエリンギと玄米を入れてまたポタージュを作った。いろんなポタージュを作ってきたけれどキャベツのポタージュは作ったことがなくどこかで食べたり見かけたりした記憶もなかったのでキャベツはポタージュには不向きなのではないかとも思ったけれどとてもとても美味しくて、小さなスープカップにおかわりして食べた。
どうしようもない気分のままだらだらと一週間が過ぎたけれど、土曜日友人から突然連絡があり気になってはいたけれどチケットを買わずにいたピアノのコンサートに誘ってもらい、こんな調子でこれから出掛けられるだろうかとしばらく逡巡したのちえいと出掛けていけば、広いステージの真ん中にぽつんと置かれたグランドピアノを通してときおり両腕を泳がせるようにして踊るようにして紡がれる音の連なりはスポットライトの光と濃い影の中でたゆたい空間を満たしていった、呼吸をするのも憚られるような緊張感と静寂のなかでわたしはそれを湧き水のようだと思った、誘ってくれてありがとう来れてよかったとわたしは何度も友人に言い、夜な夜な炭水化物をめきめき食べてワインをニ杯飲んで終電で帰宅した、そんな時間を過ごせばいつの間にか調子はすこぶる良いとまでは行かずともまあまあ普通に、くらいには戻っており、わりに平穏な気持ちできのうと今日。
そう、それでどうしようもない気持ちだったからこの一週間は金原ひとみの数年前に出たエッセイを読んで過ごしていた。そうしてその流れで今日はずいぶん前に買った彼女の短編集を久しぶりに読んだ。彼女の書く文章は基本的にいつも救いがなく、わたしはその救いのなさにいつも救われたような気持ちになる。だから彼女の書くものが好きだ。
言葉がしかし相変わらずぽんぽんぽこぽこと、あっちこっちに浮かび顔を出してはすぐに引っ込む、消える前にメモできることもあれば逃してしまうこともある。メモできたからといってなにになるかなににもならないか、わからない。わたしはそれらをどうしたいと思っているのか、メモから曲が出来ることもあるもちろんけれど曲にしよう!と思って書き留めているのかといえばそうでもない気もする。ただ、書いている、というほうがしっくりくるように思う。無目的なもののほうが本来的なような気がして、なんとなくそういうものに好意やあこがれといったものを抱くきらいがあるからそう思おうとしているのかと一瞬自問するが、だけどやっぱりただ書いているのだ、という気持ちが勝る。だいたいにおいて理由は後付けだ。
書くべきこと書きたいことはいくらでもあり、書かれるべきこと書かれたいことたちが列を成して言葉を得るのを待っている、ような、気がする。
一方的によく知ってはいるが面識はないミュージシャンが機材車にしている巨大なハイエースの助手席からみた都内の色とりどりのネオン、わたしはちっとも好きではない水色やピンクや紫や、そういう色が混じり合い揺れながらつぎつぎ流れていったそのなかで真っ黒い服を着た長髪のピアニストがたったひとつのスポットライトの白い明かりと真っ黒い影に包まれてしかし自ら眩いばかりに発光している、その光景がまぶたの内側でなんどもくり返し再生されている。