2022.02.25 “The Russian Version of Trump”

そんな気はしていたのだけど、きのうの夜はなかなか寝付けず、先ほど湯船に浸かっていたら手に本を開いたまま寝落ちしていた。

きのうはちょうど元気かな会いたいなと思っていた友人から久しぶりに急遽東京に来ると連絡があり、一緒にお昼を食べて、待ち合わせが錦糸町だったから成田に出やすい押上の駅まで、途中でコーヒーを買って飲みながら歩いた。初めてスカイツリーをあんなに近くで見たけれど一ミリも良いと思わなかった。なんだかプレハブみたいにペラペラに見えた。醜いと思った。周辺の建物にも同じ印象を持った。ちょうど『東京オリンピック2017 都営霞ヶ丘アパート』という、新国立競技場建設のために立ち退きを強いられた霞ヶ丘アパートとその住民のドキュメンタリー映画の本を読んだところだったから、このつまらない建造物のために押しつぶされた声もまたたくさんあったのだろうということを考えた。

そうしてスカイツリーやその周辺の建物やドブ臭い川の悪口を言い合って強風に煽られてなんかいろいろ面白くてわたしはけらけらとよく笑っていた。駅でまたねと言って別れて、楽しかったなと思いながら電車に乗り込んで椅子に座ってSNSを開いてみればロシア侵攻のニュース。自分がその瞬間まで過ごしていた時間とのギャップも相まってきのうはかなり喰らってしまった。混乱していたから、とりあえずそれに関するニュース記事をいくつか読み、Twitterのスペースでウクライナにいるアメリカ人ジャーナリストが現地の様子を話すのを聴きながら家に帰った。わかったりわからなかったりしたけれど、彼が一際声を荒げて言った “Putin is the Russian version of Trump! He constantly lies!!” だけははっきりとわかった。

落ち着こう落ち着こうと思ってもなかなか難しく、何度かうっすら涙が出るなどして、ひとしきり情報収集をして軽くごはんを食べて、ギターを少し弾いて本を読んでベッドに入ったけれど、夜中にも突然涙が出て、なんの涙かと考えてみれば、それはなにか世界の波動に当てられて溢れてきたものなのではないかという気が今日はしたのだった。そしてこういうときにはやっぱりひとりというのは心細いものだなと思ったりも少しした。

そうしてだけど今日は朝から歌の仕事で午後過ぎまでみっちりいろんな声を出してきた。毎度のことだけれど勉強になる。今日は普段の声とあまりにも違う声を求められたので振り切って割と楽しくやれた、気がする。

終わってスタジオを出たらうっすらとした疲労とそしてどっと押し寄せた眠気。でもちょっと寄りたいところがいくつかあり、それらの用事を済ませて夕方前に家に着いた。移動中もSNSを見たり、TBSラジオ sessionの特集を聴くなどしていた。わかったような、わからないような、でもきっとみんなわかっていないし、本当のことなんて誰にもわからないのだ。こういうときはいつだってそう。

なんという世界だろう。この世界はどこに向かっているんだろう。

さっきTwitterで、ウクライナの若い恋人たちの動画を見た。迷彩の軍服に目元以外をすっかり覆う黒いニットキャップを身につけた男性たち、涙を流す女性たち、抱き合い言葉を交わし合う恋人たち。Tom Waitsの歌を思い出した。ひとが死ぬというのは、どういうことなんだろう。

それでも、こんなときでも当たり前に、本当に当たり前に、わたしにはわたしの時間が流れていて、日々は続いていて、時間通りに電車が来て、郵便も届いて、コンビニには灯が着いている、そのアンバランスにわたしはいつも混乱する。

霞ヶ丘アパートでも、嘉徳浜でも、辺野古でも、同じことが起こっている。そしてきっともっとたくさんのわたしの知らない場所でも。たくさんの小さな声を、わたしたちの声を、かき消して押し潰しているものはなんだろう。わたしにはそれがこの戦争と無関係だとはどうしても思えない、そういうことをきのうと今日は考えていた。