2022.09.13 04:40

この一週間ほどだろうか、数日置きにうまく眠れない。また、いろいろ夢をみたりして、寝起きにうんうん、と思ったりして。

2週間ほど前、いまの部屋に引っ越してから初めてGさんがお出になり、おお、と思って、わたしは基本的になるべく殺生をしない主義なので(蚊だけは例外)どうか静かにどこかに行ってくれと願いながら様子をみていたがキッチンの台をかさかさし始めたのでおおそれはちょっと、と思って、どういう風にしたのかあまり思い出せないのだけれど(あまりに必死だったせいだろうか、そんなこともなかったと思うけれど)なんと玄関の扉から外に逃すことに成功したのであり、あぁよかったと思っていればおとといまた現れて、でもこの間のようにはうまく追い払えず見失って、でもまあそうしてそのままどこかに行ってくれたのならいいと思っていたけれどまた今日現れて、こう何度もとなるとうんざりするし、怖いとは思わないけれど気持ちの良いものではないのでうう憂鬱。みんなどうしているのだろうか。わたしの母は殺虫剤と新聞紙の合わせ技でやっつけていたような気がする。殺虫剤嫌だなぁ。新聞紙も嫌だなぁ。

そう、それで、わたしが考えていたことは、おとといと今日現れたのは、先日玄関から出ていったのと同じ個体か、あるいはその家族か、あるいはひょっとしてつがいなんてこともあるのだろうか、ということだった。だけど彼らの生態を調べるような気持ちにはならなくて、疑問は宙に浮いたまま。ちょっとだけ興味はあるけれど、いろんな意味で知るのはこれはさすがに怖い。

なんとなく、最近ゆるーく筋力をトレーニングしていて、といっても合間あいまにやったりベッドで寝る前にやったり、とか、そんな本当にゆるいやつなのだけれど、生まれて初めて筋力トレーニングというものが部活動以外で継続されていて、なんとなく効果が出はじめたもよう。継続よねやはりなにごとも。

川上未映子氏の水瓶という、書籍を読んでおり、背表紙の説明書きのような文章には「詩集」と書かれており、わたしは詩をあまりたくさん読んできた人生ではないのだけれどこれまでに読んできた詩というものたちとはおよそかけ離れた形式のものばかりが並んでおり、わたしはいつもいつも言葉の有限や不自由ばかりを思うけれど彼女を以ってすれば言葉はこんなにも無限で自由なのだ、と果てしない気持ち、と同時に希望。

リトル・マーメイドのトレイラーを観たブラックの少女たちのリアクション集をさっき、眠れないからみていた。自分と同じ見た目のプリンセスの存在というのはこんなにもパワフルなものなのだ。わたしは子どものころどんな風に思っていただろう。ディズニーランドのパレードのプリンセスたちはみんな外国籍と思われる白人の女性たちだった、そしてそれはあたかも当たり前のことのようだったけれど、でもわたしはなんか、取ってつけたようで変なの、ということと、なんか嘘っぽいな、ということを薄っすらと、奥の奥の方で思っていたけれどそれを外に出したことは今の今まで一度もなかった、ということにいま気がついた。わたしはそもそもプリンセスになりたいという気持ちを持ったことがないからわからないけれど、アジア人の主人公がいたらそれにインスピレーションを受けたりエンパワーメントされたりしただろうか。黒人の女の子たちが感じるような気持ちとは少し違ったのではないかという気がする。それはやっぱり歴史や育ってきた文化的背景の違いがあるから当たり前といえば当たり前という気もするけれど、でもどう違うのか、本当に違うのか、言語化はできない。

とにもかくにも、少しずつ、良い変化も起きている。風当たりはとても、強いけれど。そしてとてもゆっくりとした歩みだけれど。でも変化というのはいつの時代だってそうだったのだよな。日本でも、少しずつ、頼む、と思うけれど他力本願ではいけないね。最近はニュースもあまり踏み込んで読めないし増して発信をする気力も湧かなくて、なんとなく、そんな感じで、ひとりにはひとり分の力、というECDさんの言葉をさっきベッドで寝返りを打ちながらふと思った。沖縄の選挙も、良かった。できるときに、できることを。