2024.01.23 存在の不在、それから拾った石ころのこと

今日は同居人たちが出掛けており、久しぶりに、というか、もしかしたらこの家で暮らしはじめてから初めて(ということはないと思うけれどでも記憶を探ってみても思い出せないのでやっぱりそうなのかもしれない)ひとりで夜を迎えた。びっくりするほどなにもかもが静かで少したじろいだ。びっくりした。ひとりの夜なんてこれまでに当たり前に数え切れないほど経験しているのに。例えば東京のマンションで、すぐ隣の部屋や一歩外に出た通りなんかに常にひとの気配があるのと、山の中で隣の家もずっと歩いて行かなくてはないような場所にいるのとでは、「ひとり」の質みたいなものが違うのだろうか。あるいはこの数ヶ月の間に誰かがいることにすっかり慣れてしまったのか。

二十代に初めてひとりで暮らし始めたとき、わたしはさみしくてさみしくて仕方がなかった。だから手当たり次第になにかを食べたり(そして吐いたり)、手当たり次第にひとを呼び出しては酒を飲んだり夜道を徘徊したり(これはいまでもやるけど)、そんなふうにして誤魔化しやり過ごしていた。でも、それがさみしさから来るものだったことに気が付いたのはうんとあとになって、つまりごくごく最近のことで、そう、わたしはどうやらひどい寂しがり屋なのらしい。ぜんぜん、本当にぜんぜん、知らなかった。思うに、わたしは「さみしい」という言葉は知っていても、その意味を理解していなかったのではないか。「さみしい」というのがどういうふうに感じることを言うのか、それを知らなかった。だから自分の感じているらしいその「なにか」が「さみしい」なのだということを知らないまま、ずっと、自分の行動のすべてがどこから来るものなのかわからなくて、だからたぶん余計に苦しかった。知らないままわけのわからないままにさみしさをやたらめったらに撒き散らして、だから余計なものもいっぱい引っ掛けてしまって要らん傷もいっぱいつけて、なんだか本当に不器用でどうしようもない二十代(正確には三十代のはじめまで)だったと、ようやく最近になって思う。

そしてもうひとつ、これも最近気がついたのだけど、孤独を感じるということは、それはどうしたって他者の存在なしにはあり得ないのだ。わたしはこれまでずっと自分はこれ以上ひとりには孤独にはなれないくらいひとりで孤独だと思っていたけれど、そこに具体的な他者が介在しその存在の不在があったとき、わたしはもっともっとうんとひとりになりそして孤独になった。自分の個と孤がものすごく照らされ、その影がものすごく濃くはっきりと浮かび上がった。そしてそのことに(も)心底驚いたのだった。

敬愛する音楽家がインタビューで音楽について「他者がいないと意味がない」と言っていた。その言葉の意味はだけど未だにわからない。ずっと考えてるんだけど。例えば、わたしがここに書いているこれを、いったいどれくらいのひとが読んでいるかということをわたしは知らないし知りたいとも思わないけれど、でも読んでる、とわたしに教えてくれた友人知人というのはなんにんかおり、でも(これは誤解を恐れずにいえば、という前置きを書きたくなるけれど、後述することと矛盾するので書かない、でも書くべきかもしれないという気持ちはあるのでそのことは書く)特に「読んでくれてありがとう」とは思わない。もちろん嬉しくはあるし、気にかけてくれてありがとう、とは少し思う、でもそれもあまり正確ではないように感じる。なぜかと言えば、わたしはここにただこれらの言葉を書き置き、その先になんの期待も希望も、本当になにもなく、ただ自分がそうしたいから自分のためにそうしている、そしてその言葉をなんらかの形で受け取ってくれるひとがいたときに、わたしとそのひととの関係性というのは圧倒的にイーブンだと思うからだ。それは例えるならわたしが浜辺でふと目についた石ころをなんとなく手に取ってひとしきり眺めてからまたその辺りに置き、今度はしばらくあとにやってきた別の誰かがそれを拾う、みたいなことで、どっちがどう、ということはない、だからお礼を言うこともましてや言われることも、その必要性もない、と思う、思っている。たぶん。言葉にしてみようとするとそういうことなのだと思うのだけど。

そしてそれは音楽に対しても同じように思っているところがあり、これは前にも書いたけれど、わたしはただただ、自分のために自分の救いのために音楽を作り歌を歌っているし、それはこれまでに何度考えてもそうだったので、そういうふうにしか出来ないあれない、ということなのだと理解するに至った。でも、音楽に関してはやっぱり聴いてほしいという気持ちがあり(それも以前ほどなくなってきたけど)、だけどそれが果たして「他者がいないと意味がない」の意味なんだろうか。だけどだけどだけど聴くひとが誰ひとりいなくたって、音楽は音楽として変わらずそこにあり、そして少なくともわたし自身にとっては救いとか支えとかあるいは逃げ場所とかそういうものであり続けるはずで、それは絶対にそうなわけで。Adrianne Lenkerは自分の作った音楽を聴くひとがどう感じるかは「サイドノートみたいな」ものだと言っていた。つまりはおまけみたいなものだと。自分がそれによってそれについてどう感じているかがほとんどすべてだと、そういうことを言っていた。わたしは、そうだよね、そうだよね、と思った。

Dawn (Side-A)という作品は、すごく純粋な気持ちで作った。それはこれまでだってずっとそうだったけれど、振り返ってみればそこにはそれ以外のものもやっぱりどこかでは少し混ざっていて、それは例えばみんな“ポップ”なものが好きだからちょっとそういう感じの曲を作ろう、とか、そういう、下心みたいなものとか打算のようなものとか、なんか、そういう気持ちはやっぱりあったなと、これはいまになってわかったことだけれど、思う。Dawn (Side-A)はただただ自分がいいと思うものを作る、ということだけに集中して、それ以外のことはいったんぜんぶ隅に置いて、作った。そしてなんやかんやがありまた文字通りじたばたしたり転んだりしたりしてリリースをしたわけだけれど、まあ予想通りというかなんというか、すごくたくさんはやっぱり聴かれてはいなくていまのところ、それに関して、うーん、不満というか納得のいかない気持ちのようなものは当たり前にあるけれど、もっとみんな聴けばいいのになぜなら最高の作品だから、と思う、でもこれまでのようにそのことによって傷ついたりあるいはそのことに執着するようなことはなくなった。ようやく、ついに、そういうしがらみが、完全にではないにしろ、ほとんどなくなった。だからわたしはやっと少し前に進めたような感覚が、そういう意味でもこの作品に関してはあって、そしてそのことが嬉しいし安堵を感じている。

ええとなんの話だっけ、と思えば、存在の不在、というところから出発して、なんだかぜんぜん違うところに辿りついてしまった。なんにしても他者の存在について最近はますますよく考える。ひとりでいいしひとりがいいと思っていたけれど、実際本当はそうでもないのかもしれないな、とかね。まあなんていうか、わからないけど。
でもいまここまで書いて、ここまで読んでくれたひとがいるなら、やっぱりちょっとありがとう、と思うかもしれない、と思った。しかしこれがもしなんらかのコミュニケーションであり得ているとするならば、それはやっぱり双方向であってほしいと思うから、いつかそのうち、なにかの形でそうなったらいいなと思う。いや、どうなんだろう、べつにそんな必要もないのかな。だけど例えば、わたしが拾い上げた石ころは、わたしが拾う前とあとではなにか、もしかしたら少し違うものになっていたりするんだろうか。そんなことがあるんだろうか。