2024.09.06 文字通り過去に

書き出しを思いついたからiPhoneを手に取ったのに、手に取った瞬間他のあっちこっちに気を取られて寄り道していれば瞬間で忘れてしまう。なんだっけ、と打ちながら思い出した、東京にいると驚くほどスクリーンタイムが増える。確認しているわけではないけれど、気づくとずっとスクロールしていたりする。恐ろしい。

きのうは日記を書いたけれど載せないままになっていて、いまさっと読み返したけれど日記というのはそのときに載せなかったらもうなんというか期限が切れてしまうので、一瞬だけ躊躇ってだけどやっぱり全部消した。さよなら言葉たち、少し気の毒な気持ちになる。同情。

東京にいるときわたしは実家で生活をしているあるいはさせてもらっているのだけど、両親はきのう今日明日と留守にしており(旅先から写真などが届く、以前だったら考えられなかったことだけれど最近はしょっちゅう二人で旅行に出掛けている)広い家にめずらしくひとり。先月はたくさんひとと過ごしたし、なんというか居心地が良い。ひとり、というのは、当たり前に孤独ではっきりとさみしいのであるけれど、でも一方で代え難い心地良さというものがそこにはあってだからわたしはいつも天秤にかかったそのふたつを前に腕組みをして考え込んでしまうのだった、というような感じ、に、なる。両方を得る方法はないのか、あるのか。

おとといがライブだったのできのうは一日ひどくだらだらと過ごし(家にひとりだったことはちょうど都合が良かった)今日もきのうほどではないがまあまあだらだらと過ごした。夜になって荷物と郵便を出しがてら散歩兼買い物に出掛けて、東京の良いところは何時でも散歩が出来るところだ、と思った。遠回りして多摩川まで出て、品揃えの良い大きなスーパーで和歌山ではぱっと買えないものを中心にカゴに入れ、すっかり重たくなったトートバッグを肩に店を出れば、小さいひとからのビデオが届いたので夜道を歩きながら画面越しに短い通話をした。もう二週間近く会っていないのでそれは薄ぼんやりと奇妙な感覚のすることだった。それにしても実家の近所、多摩川を夜な夜な散歩していると思い出されるのはどうしたってコロナ禍の緊急事態宣言下のあの頃のことだけれど、でもその記憶や感覚やあのときの空気みたいなものとか、もうずいぶん薄れていることに気がついて、こうやってなんでも過ぎ去って文字通り過去になっていくのだというようなことを家に着く少し前にふと思ったのだった。

気がつけば9月。後回しにしていたリリースにまつわるあれこれも少しずつやっているので近く曲が出るのだけどなんだか全くと言っていいほど実感がない。今回の作品は足掛け3年ほどかけて作っていて、だからたぶんもうよくわからなくなっているのだ。ずっとよくわからないまま作って、ようやく完成してそうしてわかったような気持ちに束の間なったけれど、結局やっぱりよくわからないままにリリースするのかもしれない。なにがわからないのかもよくわからないのだけど、もはや。

まりちゃんのライブが来週末にあるみたいなのでちょっと遠いけど出掛けて行きたいなーあと知人が出ている映画がきのう公開になってとても良さそうなのでそれは今週末、そしてピナバウシュの舞台が来週後半に控えているのでそれも滑り込みたいしかし来週金曜日は気になっているライブがあり、意外と盛りだくさんの今回の東京。しかし来月もまた来ることになりそう。来月はあちこちに行く、久しぶりに日本を出る、そろそろ航空券を買わなくちゃ。