2024.11.12
ここ数日憂鬱なことがあり、きのうの夜はそれががつんとやって来たので仕方なく買っておいたワインのボトルとグラスを掴んで部屋に引っ込みちびちび飲みながらハンガンの『ギリシャ語の時間』の残りを読み(この間ハンガンの「新作」と書いたけれど全然ちっとも新作ではなかった、2017年の作品だった、なぜ新作と思い込んだのだろう謎こんなことばかり)しばし余韻の中でぼんやりとし手持ち無沙汰でしかしギターを弾く気にもならなかったので仕方なくパソコンに向かって全然関係のない仕事をした。仕事、お金のための労働を心から憎んでいると感じることもあるけれど、でもこういうとき、なにも考えたくないときにはただ頭を空っぽにして手を動かせばいいから、そういうやり方というか使い方というか、もあるな、と思うなどし、しかしワインはちっとも酔わなかった。
ハンガンのギリシャ語の時間は、やや難解な部分もあり(それはあるいは訳のせいではないかという気持ちがこういう場合はどうしてもしてしまうのだけれどどうなのでしょうね、と考えて、文体を訳すなんていうことは果たして可能なのだろうかと考えた)しかしやはりハンガンで、描写のひとつひとつが瑞々しく、甘く、痛く、切なくて美しくてやっぱり涙が出るのだった。
ベッドに入ったら眠気が来るまで本を読むのがすっかり日課になっているけれどきのうは余韻がまだ続いていたから布団を被って目を閉じたらすぐに眠ってしまった。
今朝は本棚をぱっと見て目が合った川上未映子の『深くしっかり息をして』というエッセイ集を片手に朝食。2016年にトランプがヒラリーを破って大統領になったときの文章が載っていて、あれから8年が経ってもまったくなにひとつ変わっていないどころかむしろ後退しているではないかと思わざるを得ずさらなる憂鬱。
川上未映子氏は明確にフェミニストで、彼女の書く文章のあちこちにそれが見て取れるわけだけれどとりわけ深くしっかり息をしてにはそれがはっきりと描かれており、初めて読んだとき彼女の憤りに激しく共感するとともに理路整然、毅然とした物言いに胸のすくような想いがしたのだった。それは今も変わっていないけれどしかし今朝読み返しながら気がついたのはそうした想いがわたしの中から少し離れた静かな場所にあるということだった。なんというか、過ぎ去った出来事や感情を思い返しているときのような、そういう感じだった。それというのはおそらくわたしがいま山の中の家で極端に限られた人間関係の中で暮らしているからだろうというのは安易に想像がつき、だけどそれは果たして良いことなのだろうかどうなのかはて、と思う。自分自身の心身の健康のために負荷のかかる事象と距離をとることは非常に重要な一方で、距離をとったとてそれがなくなるわけでもましてや改善するわけでもないのだから、働きかけは何らかの形で続ける必要がきっとあって、だからわたしはまだもう少しそのバランスみたいなものを探っていく必要があるんだろうな
今日は天気が良いので窓辺の陽当たりの良い床に膝を抱えて座ってこれを書いている。きのうの夜仕事を進めたから今日はゆっくりギターを弾こうかな。音楽のこと、曲のことを考えはじめると今日もずっとまったく果てしがない。