2025.01.19 旅とはすなわち移動のことである

めずらしくただただ音楽を聴くということだけをしながら電車に揺られていればイヤフォンのケースを充電しておくのを忘れて、電池切れ。しかしあと15分ほどで到着。今さらぼんやりと眠い。

なんだかんだと二週間ほど滞在した今回の東京。帰ってすぐは電車内の情報量の多さに眩暈がするほどだったけれどそんなのにも一瞬で慣れてしまい、あぁそうかそうだったそうだっけ、と思ったのだった。滞在が一週間を超えた辺りからそろそろ帰りたいという気持ちになることも度々なのだけれど今回は特にそんなこともなく、何人かの友達と会い、何人かの友達とは会わず、なんというか、なんということもなく、淡々と過ぎた。

年明け早々に祖母が骨折し、入院したので千葉の病院まで二度お見舞いに行った。一度は弟家族と二度目は母方の従姉妹と。従姉妹にはとても久しぶりに会った。彼女の方が歳がいくつか下なのでいつまで経っても小さな親戚の子のイメージが消えないがお互いすっかり大人なのでそんなことに飽きもせず静かに驚く。

祖母は元気は元気だけれど確実に老いており、死期がそう遠くないうちにくるということをわかりながらだんだんと自由を失いながら生き続けるというのはどんな感じのすることだろうかと考えた。会う人会う人と老いること死ぬこと死ねないことについて話した。それは例えば、生きたかったのに生きられないことと、死にたいのに死ねないことと、どちらが果たして、というような、そういうことを。だけどやっぱり人間というのはそもそもこんなに長く生きるようには作られておらず、医学の進歩に社会の仕組みもわたしたちの心も体もやはり追いついていないのではないか、親友が長生きが幸せとは限らないとしみじみと言った。坂本龍一さんの最後の手記の中に、治療を終わりにしたときのことが書かれていた、そのことを思い出した。あとがきに書かれていた、これからの世の中を見ずに逝けることは幸せなことかもしれない、という言葉も。

移動していると忘れていたことを思い出すみたいに、いろんな言葉が浮かんでくる。ノートやiPhoneのメモに書き留める。歌に、音楽に、なるだろうか。なるんだろうきっと。