2025.07.21 わたしたちはどんな言葉を、

心がどうやらすっかり麻痺しているのか、選挙の結果をみてもこれといった感情が湧かずにいる。

今回の選挙で気がついたことは、自分とはまったく異なるあるいは真逆の投票行動をするひとたちも、その行動によって世の中が良くなると信じている(少なくとも願っている)のだということで、これは考えてみればとても当たり前のことなんだけど、これまであまりそういう角度から考えてみたことがなかったのでかなりハッとしたのだった。

例えばこれまでであれば自民党や維新、今回であれば参政党に投票するようなひとたちのこと(参政党の登場により他党がぜんぜんまったくマシに思えるマジック)をわたしはやっぱりどうしてもどこか全然違う星から来たひとたち、くらい遠い、理解できない相容れない存在として捉えてきたように思う

でも今回、以前何度かお世話になったひとがSNSで参政党を支持する投稿をしているのを見て、自分と異なる政治思想を持つひとの存在が初めて身近で、具体的な輪郭を持ったものになった。

そうしてさてどうするか、と考えたとき、黙ってフォローを外したりすることは簡単だけれど、ちょっと会話してみたい、考えや想いや経緯を訊いてみたい、そしてわたしも伝えてみたいと思った(はじめはまじで無理、とも思ったんだけど)、それで“外国人優遇”が事実ではないことを示すいくつかのデータと一緒に「ちょっとやり取り出来ますか」とDMを送ってみたら、こちらがあれこれを訊くまでもなく長いメッセージが送られてきた。その内容を読んで思ったのは、わたしから見えている世界とは全く異なる世界をこのひとは見ているのだ、という事実だった。

わたしからすればその主張は歴史修正であったり陰謀論であったりするけれどもしかし少なくとも現時点においてそのひとにとっては紛れもない事実なのであって、そのひとの信じる正しさ、真実は、わたしの思うそれらとまったく等しい重さでもって存在していた。だからどちらが正しい正しくないという議論は成り立ちようもないというか平行線でしかあり得なく、ではじゃぁまったく違う前提に立つひとに対して自分はどんな言葉を持ち得るだろうか、という、これまでずっとぼんやり考えてきたことを初めて具体的に考えた。

はっきりいって本当ーにわからなかった。無理なのでは、と思った。そのひとの主張に対して、わたしがいろんなデータを持ってきてエビデンスを示し「あなたの言ってることは間違っていますよ」と“正しさ”をぶつけることにはおそらくあまり意味がない、というより対話という目的においてはむしろ逆効果に思えた、ので、いったんそこには触れずに、そのひとが送ってくれたのと同じように、まずは自分が現状をどう捉えていてどういうスタンスでどう考えどう投票しようとしているか、ということを書き、そのうえで参政党について自分が賛成できないところ、懸念していることを書き、こういう点についてはどう考えていますかと尋ね、最後に排外主義についての報道特集のリンクと、もしあなたにもおすすめのサイトや動画があったら送ってほしい、と書き添えた。

その後返事はなく、もう来ないかもしれないし、それはわからないんだけど。

例えばカウンターデモとかって、もちろんとても大事だと思うんだけど、わたしがそういうものに対して苦手意識を持つ大きな理由として、暴力的な言動というのがある。今回も参政党の街宣のときにカウンターの誰かが掲げたと思われる登りにひどい罵り言葉(忘れたけど、カス、差別主義者消えろ、とかなんかそんなの)を見た、排外主義に対して湧き上がる怒りは理解できる、のだけど、そういう表現方法がなにかの解決になるとはやっぱり思えなく(そしてこれはトーンポリシングとは似て非なるものだと思っているけどちょっと自信がない、もしそうだと思うひとがいたらどうか優しく教えてください)あと単純にそういうのってすごくアテられて疲れてしまうのだね

当たり前にぜんぜん結論みたいなものがあるわけではないのだけど、例えば、自分がSNS上で相容れない理解不能な存在として批判しているひとたちと、道ですれ違ったり電車で隣り合ったり、いつも行くスーパーのレジで前後に並んだりしているかもしれないということ、今日も仕事だるいなぁとか暑いなぁとか生活大変だなぁとか同じように思っているかもしれない顔と名前のある誰かであるということ、身近なそのひとあのひとかもしれないということ、「お前はわかってない」「お前は間違ってる」と言ってしまいそうになる気持ちを抑えて、そういう想像力をまずは持とうと試みること、それは案外大きな入り口になり得るのではないか、そういうことを考えた(そしてこれは差別主義者に対して声を大にして言いたいことでもある)。綺麗事だろうか、たぶんそうなのかもしれない。排外主義を声高に叫ぶひとを前に自分が冷静でいられるかといったら、たぶん無理だろうし、わからない。

みんなみんな良くなって欲しいと思っている、その気持ちがなんかうまいことぜんぶちゃんと報われる魔法みたいなことがあったらいいのにね

それにしてもある記事で、今回の選挙で撒き散らされた排外主義の種がひとり歩きのようになって今後根を張り広がっていってしまう可能性について書かれているのを読み、そのさまがとても容易に想像できてしまい改めて背筋が凍るような思い、そうならないために、どうしたらよいのかを引き続き考える、考えていく、そういうことなのだろうと思う

なんだかすっかり言葉を、言葉にすることを諦めかけていたけれど、今回またこうして言葉に変換しようという気持ちを取り戻せたことをよかったなと思う。いろんなひとに力をもらっているのだと思う、直接的であれ間接的であれ、巡り巡って。希望、みたいなものがあるとしたら、やっぱりそういうささやかな営みの中にこそあるのかもしれない、そういうことを思う。それぞれが、できることを無理なく、休み休み。

毎日暑いしあんまり良いことはないし、本当勘弁してくれよと思う世界だけれども、まあとりあえず、息をすってはいて。