2025.12.10
この何年かでもっとも好きな作家のひとりに、ハンガンがおり、彼女の作品について最近あるひとと話をしたのでまた読みたくなって、少しずつ読み直している。一度読んだ本を読み返すという習慣が最近までほとんどなく、それでもハンガンは数回読み返していたと思うけれどやっぱりあんまり覚えていなくて、いちいちはっとしたりなんかして、本を読むという行為はつまりなにをしているということになるのだろうかということをぼんやり考える。映画にせよ舞台にせよどれだけ感動したとてその内容も感動もだけどすぐに忘れてしまうから、あるいはそういうものなのかもしれないけど。
きのうはとてもめずらしく、なんの約束もなしにひとりでぶらぶらと街に出た。少し買いものがあったのと、あとはなんとなく外に出たほうがいいような気がして。本当はだれかに会いたかったので顔が浮かんだ何人かに連絡を入れてみたけれどそろってだめだったのでそうか今日はそういう日か、と諦めて、ひとりで古着屋をいくつかまわって、とても気に入るビンテージのニットカーディガンを一着買った。60〜70年代のものだと言っていたけれどとても状態がよく、そのぶん値段もわりとよかったので迷ったけれど、とても素敵な好きなものだと思ったから買うことにした。もう一着変わったデザインの可愛いワンピースがあり、それもうしろ髪をひかれたけれど、あまり欲張ってもよくないし、最近はめっきりワンピースも着なくなりあまり出番がなさそうなのでやめた。よく行く雑貨屋で日常の細々したものを買い、はじめて入るアイリッシュパブでハーフパイントのIPAを一杯だけ飲んだあと、遅くまでやっている古本屋で目についた本を何冊か買い、家に帰った。素敵な買い物をしたとてなんとなく憂鬱で薄い膜につつまれているような気分だったけれど、帰ってゆっくり湯船につかっていつも通りストレッチなどをして布団に入れば、今朝は驚くほどの爽快感、としか言いようのない清々しさとともに目が覚めて、まったくいったいなんなんだ。これだから気分というものは本当に信用ならない。そうしてむしろ愉快な気持ちになった。
しかし、例えば自分だけのために少し手の込んだ料理をつくったりケーキを焼いたり、自分だけのためにいい香りのボディオイルをぬったり美しい下着をつけたり、あるいは自分だけのために夕暮れ外に出て少し歩いたり、そういうことというのが、大人になればなるほど重要になってくるのではないかしら、そういうことを今朝は考えたのだった。
少し前に新しく買った本をみながらいつもと違うレシピでキャロットケーキを作れば、どう考えても分量の表記を間違えているとしか思えない生地になり、てきとうに足して作ったら未だかつてないほどしっとりしたキャロットケーキになった、でもいろんなスパイスをたっぷり入れたのでおいしかった、いつもはシナモンとナツメグくらいなのだけど、最近はじめて買ってみたクローブとあと最近はカルダモンも常備しているので。スパイスって混ざるとおいしいのだな、はまるひとの気持ちが少しだけわかったような気持ち。
そうしてあっという間に12月も半ばであるのらしい、しかしぜんぜん寒くないね、長く使っている黒いストール、適当な店で適当なものを買ってしまったので毛玉だらけでたいそうみすぼらしく新しいものを買いたいがなかなかイメージ通りのものがない、なにかひとつを選び買うというだけでもたいへんなことだなと毎回思う、それにしてもなんだかばかみたいに簡単にお金を使っているような気がする近ごろで大丈夫なんだろうか。
来年はどうしようかなあ、秋からはじめた翻訳の勉強は続けるとして、それだけでわたしは生きていけるのだろうか、それは経済的な意味合いではなくて、心の持ちようとして。なにか、頼りになるものがなくてはいけない、でも、音楽のかわりになるようなものを探そうというその発想自体がもしかしたらナンセンスなのかもしれない。どこかに行くのもいいかもしれないし、というか引っ越そうかどうしようか、あれこれの決断を先延ばしにし、だけどまあ決めるときは決めるし決まるときは決まるので。