2022.11.16
軽蔑が最も哀しいなと思って、でも軽蔑という感情の先に諦めという感情があることに気がついて、軽蔑と諦め果たしてどちらがより哀しいだろうかと考えた、きのう。
それとはまったく関係なく、きのうは父が用事で近くまで来るからといって帰りに荷物を届けてくれた。駅まで自転車で行くとお腹が空いたというので、わたしはもう夕食を済ませていたけれどまだ食べていないことにして食事に付き合った。わたしの住む街の駅前には本当になにもなく、その場で調べて存在すら知らなかったタイ料理屋に入った。生まれて初めてちっとも美味しくないタイ料理を食べた(というかそれはタイ料理ではなくタイ料理に似せたなにかだった)と思ったけれど味音痴の父は久しぶりのタイ料理だといって喜んでいたのでわたしも美味しいねと言って食べた。シンハービールを久しぶりに飲んだ。父とふたりで外で食事をする機会なんてこれまで滅多になかったけれど、父はなんだか嬉しそうでよく喋って、だからわたしもなんとなく嬉しくて、全然美味しくないタイ料理もちっとも気にならずにこにこと別れた。こういうこともあるんだな、と思った。
そうして今日はKhruangbinをみに初めてのZepp羽田。行きは京急、帰りはバスで蒲田まで出てみる。こんなに実家の近くに来るならわたしが今日荷物を取りに寄ってもよかったなと思う。蒲田にはずいぶん久しぶりに来た。さんざん飲み遊んだはずの街なのに寄りたい店のひとつも思い浮かばず、誰か友達に連絡しておいても良かったなと思いながらしかしまっすぐに帰る。この間、実家のほど近くにとても魅力的なリノベーション物件が売りに出ているのを見かけて、しかも手が届かない値段でもなく、なんとなく心揺れている。地元に戻ったら家族も友達もみんないていいなあと、初めてそんな気持ちになっている自分を意外に思う。時間が流れるというのはこういうことなのだどうやら。
Khruangbinは当たり前にところどころちょっとよれていて、その感じが良かった。あと至極シンプルだったのも良かった。ドラムというかスネアが意外と硬い音でへえと思ったけれどベースとのバランスを考えたらあれくらいなのかもしれない。終演後脚元やアンプを見にステージ際まで行きたかったけれどひとが多くてすぐに諦めた。そしてもっとがんがん踊りたかったけれどちょっとひとが多過ぎた。斜め前にいた白人の男性が、これはひどくステレオタイプな言い方だけれどまったく白人然とした踊り方をしていてなんか懐かしい気持ちになった。当然のようにマスクをしていなかった。
蒲田までのバスがあったのは救いだったなと思う、こういう日の電車はけっこう堪える。どちらにしろ乗らなくてはいけないことに変わりはないのだけど。しかしそうして結局乗り換えの駅で見かけた立ち食い寿司の店に吸い込まれるようにして何巻か摘み生ビールを飲む。肉を食べない人間にとって寿司屋は逃げ場所としてはとても有り難い。いつか友達とふたりで渋谷の立ち食い寿司でまわりのお客さんがみんないなくなるほど長居をしてたくさん食べたことがあったな。わたしより先に来ていた隣の細っこい女性が次々とテンポ良く食べていて視界の隅っこで盗み見。わたしのすぐ背中にあったレジへ向かった彼女の会計は「4445円です」だった。わたしの会計はその半分だった。
あさってわたしはついにBig Thiefをみる。生まれて初めて開場前から並んでしまうかもしれないな。静かに心湧き立つ。
さっきの話だけれど、諦めより軽蔑の方がやっぱり哀しいなと思う、でも諦めの方が軽蔑よりも先にあるのに軽蔑よりも哀しいと感じないのは哀しさを通り過ぎているからであって、だからそう考えるとやっぱり諦めの方が哀しいのかもしれない、というより、諦めより軽蔑の方が哀しいと感じることが軽蔑よりも哀しいのかもしれない。