2022.12.30

年末。思いの外真面目に大掃除をしたきのう。ちょっとした荷物を届けに父が朝から車で来てくれ、わたしはほとんど寝起きでぼーっとした気持ちのまま小さなテーブルに向かい合わせてふたりでコーヒーを飲んだ。最近の父はとてもよく喋るので、沈黙を心配する必要がなくていい。でもなんの話をしたか思い出そうとしてみてもなにも出てこない。弟の話。他愛のない話。今年の頭に買った仕事用のデスクとチェアを見せるといいねと言いい、わたしがスピーカーやモニターを置くためにDIY(というほどでもないけど)したスタンドにひどく感心してくれわたしはちょっとだけ得意げな気持ちになるなど。

父が「お母さんから」と言って渡してくれた小さな白い紙袋に入っていた和菓子をもしゃもしゃ食べながら一日ゆっくり家のことをした。気になっていたあちこちがすっかり綺麗になりようやくすっきりした。わたしは甘いものの中でも特に餡子に目がないので母はなにかにつけてわたしに和菓子を差し入れてくれるのだけど、4個だか5個だか入っていたお菓子たちは昼過ぎにはわたしの体内に消えてなくなり、もうないのかと自分で驚く。お菓子の類を少しずつ消費するということが未だにちっとも出来なく(壁と卵のクッキー缶もものの二日で空になった)きっとこれからもずっとそうなのだろうという気がする。まあ、いいんだけど。

ひとが死ぬ夢を立て続けにみた。一瞬心配になったけれど、誰かが死ぬ夢はいい夢だといつかなにかで読んだことを思い出して安堵。ひとりは専門学校が一緒だった少し歳上の友達Kで、もうひとりは会ったことはないが友達の友達くらいの距離感のバンドマンMだった。ふたりがどうやって死んだかは見たのか見なかったのか、忘れてしまった。ツイッターでMのツイートが流れてきたのを目にして、あ、生きてる、と思った。Kには長いこと会っていない。彼女はカナダの大学に進学して、確かカナダで出産をしたのだった。いまはどこでどうしているんだろう。カナダで一度会ったような気もするけれど、妄想のような気もする。記憶も夢も想像も妄想も、どんどん境界線が曖昧になる。小学生のときに友達にこういうことがあって、と話したらそんなはずはないと言うので「あれ、夢かな」と言ったらひどく笑われたことがある、そのことをずっと覚えている。

最近はとてもよく寝てしまって、というか朝ちっとも起きれないというのが正しいのかわからないのだけど、とにかく一日8時間とか9時間とか寝てしまう。ほとんどずっと家にいる生活なのでなににそんなに睡眠を必要としているのかまったく不思議。年明けからはもう少ししゃきっとできるだろうか、でも来年はいよいよレコーディングが始まり、また選挙もあるし、仕事もまあまあ込み入ってきそうな雰囲気で、なんとなく慌ただしくそうな気がしているから休めるうちに休んでおくことはちっとも悪いことではないな、とさっき寝起きにひとりで納得した。

きのう友人とちょっとだけ電話で話した。わたしがぼんやりと無意識と意識の中間くらいで感じていたけれどそれに対するなんの言語も持っていなかったためにちゃんと認識することが出来ずにいたことを言葉で以て伝えてくれて、なんていうかしゅるしゅると、感覚がちゃんと思考や考察を伴う感覚になったような、感覚。わたしは彼と知り合ってからまだ日は浅いけれどとてもお世話になっていて、面倒見が良くて優しいひとだなと思う。ありがたい。なには出来なくとも、もらったものを返せる自分ではありたい。忘年会やらで酒を飲み続けているらしく、ああそういう年末もあるのだな、そうだよな、と思う。

わたしは今年は忘年会みたいたものはほぼなく、近しい友人とぱらぱらと会い食事をしワインをゆるゆるしかし多量に飲む、といった感じの年末だった。穏やか。今年もアチコさんと納会がしたかったけれど、年末まで大忙しなのらしく、新年会に持ち越しになった。アチコさんは今年の活躍っぷりはしかしすごかったな。素晴らしい。

リルケの『若き詩人への手紙 若き女性への手紙』をきのう寝る前に読み終えた。詩人への手紙は孤独と忍耐について多くのページを割いて書かれておりああこれいまわたしにとても必要な言葉だ、という気持ちで感銘を受けた。対して女性への手紙はちっとも入ってこなかった(ので、前半の感銘はその間にほぼ打ち消されてしまった、易いわたしの感銘)。前者の手紙の受け取り手である若い詩人はしかし後年「下らない大衆小説」を発表したと解説に書かれていて大変興味深い気持ち。しかしてわたしはようやくリルケを読んだ。大学にドクター・ヤタニというとてもユニークな性格の日本人の教授がおり、とてもお世話になったのだけれど彼が熱心に勧めてくれたリルケの『マルテの手記』をわたしは卒業帰国後すぐに購入して読み始めたけれどちっとも読み進められず、稀にみる何度も挫折している数少ない本のなかの一冊なのであるが、ついに来年は読めるのかもしれない。そうだといい。

un/baredの06があと一回残っているので年内にはと思い何度か書いてみたのだけど、全然ハマらず。趣向を変えてみようと今年の振り返りみたいなものを書いてみたけれど、なんかそれも宙に浮いてしまった。一年の振り返り、みたいなことについて年末はいつもぼんやりそれをした方がいいのかするならば何のために、みたいなことを考えるのだけど、それは自分自身の自省のためにのみ有効な行為なのではないかと今年は思ったのだった。

世が世なのでただ生きているだけで十分過ぎるほどに偉い、と思う気持ちに嘘はない、のだが、やはりなにかを求めるような気持ちというものも一方で確かに存在し、存在し続けているので。

制作のことをぼんやり考えながらもいま自分に出来ることはひと段落したような気がしているのでちまちま練習をしたりしながら、無目的にギターを弾いたりしていてああなんかこういうのも少し久しぶりだなと思ったりする。制作と並行して少しずつまた曲も書き溜めたい。あとエレキギターをもう少し弾けるようになりたい。細々、いろいろ。

子どものころに発見した数少ない真理のひとつに、歩き続けていれば時間はかかっても必ず目的地に着く、というものがあり、それをなんとなく思い出す今朝。同じようになにをしていても必ず時間は過ぎる。過ぎる。過ぎる。

コーヒー豆がもうなくなりそうで、今朝足りるだろうかと思いながら計りにかければぴったり12グラムで空になった。今日は久しぶりに外に出掛けるので久しぶりに好きな店でコーヒー豆を買える。最近また髪をうんと短く切って、いまの自分ぽいなと思って、とても清々しい気持ちでめずらしくちょっと頬がほころぶような心持ちの年末であります