2022.04.06
死んだままのようにして過ぎた三月。と思ったけれど、感情がものすごく、ほとんど行き切るところまで行くくらい動いていたからある意味ではすごく生きていたのかもしれない。死にそうになりながら。
そうして四月に入って間もなく一週間が経とうとしているけれど、相変わらずあまり安定せず、というか全然浮き上がってこれず、低ーいところでぐずぐずと蠢いているような、そんなあんばい。部屋から見える川はおとといの雨で増水したままで、きのうは水溜りというには大き過ぎる、だけど水が溜まったとしかいいようのない河原の広場に子供達がどうやら虫取り網やなにかを持って入って遊んでいて、わたしはそれを窓から見てとても驚いたのだった。
今日はとても穏やかでいい天気。川の向こうに桜が見える。綺麗。あとどれくらい持つだろうか。
きのうおとといと明け方近くまでNetflixのドラマを観ていて、なんか、もう全然ダメだった。そういうとき、もうこのままずるずるとダメになって抜け出せなくなってどうしようもなくなったらどうしようという考えがふつふつと湧いてきて、でも自分はそうはならないということを心あるいは体の別の部位でちゃんとわかっていて、そういう自分の中途半端な強さというか図太さみたいなものを呪わしく思う。でもなんか、それでもこれは長引くかもしれないという気がして参ったなと思っていたけれど今日はなんとなく大丈夫そう。
今日はブルーベリーとココナッツのマフィン。コーヒーが美味しくて、ちゃんと美味しいと思えたことに安堵して、そうして数日ぶりに本を開いて少しだけ読んで、言葉を書きたくなる。最近、日記以外のものを書きたいなと思って少し着手してみるのだけど、着地点が分からなくてふわふわしている。目標とか目的とかそういうのがいまは全然わからなくて、それでだから心許なくてあまり調子が出ないのかもしれない、というか単に暇だからよくないのかもしれない。暇だと余計なことばかり考えてしまう。
忙しいと暇が欲しくなって、暇になったらなったでそれを言い訳のようにして、お気楽なことだなと思う。
コーヒーを淹れながら、何日か前の地元の友人たちとのお花見のときにわたしは酔っ払って彼女たちをマウンティングするようなことを言ったのではないかという気がしてきて、それに紐付いて恥に纏わるさまざまな記憶が思い出されて居た堪れない気持ちになる。恥という感情をわたしはとても怖れている。でも、こと地元の友人たちに関して言えば彼女たちは親友だしもはや家族のようなものだから、わたしのそうした振る舞いにはきっと慣れているのかもしれないしもし何か思っていてもそれも含めて受け入れてくれているだろうということを思った。そういう風に思える存在がいることの有り難さ。と同時に、それに甘えてはいけない、という自制の気持ち。そう、たぶんすっかり甘えているのだ。あとやっぱり彼女たちといると昔の自分に引き戻されてしまうところもあるなと思う。何度か参加した対話の会でのルール、相手の話を最後まで聞くとかジャッジしないとかその場その時に集中するとか、いくつかあって、それをわたしは誰と話すときにも忘れないように書き出して目に入るところに貼っておいたらいいのではないかと思って、そのことを今までに一度も思い付かなかった自分に少し驚いた。どこに貼るのがいいかな。
いま座っているソファから見える寝室のベッドのちょうど真ん中辺りに、昔家にあった丸い手鏡くらいの大きさの光がカーテンの隙間から挿していて、やたらに光っていて綺麗でそれを見ていたのだけど、これを書いている間にいつの間にか消えていた。明け方までドラマを観て、昼まで寝て、さっき起きたばかりなのにもう眠い。冷蔵庫が空っぽだから今日は買い物くらいはしに行けるだろうかと思うけれど、最近ずっと胃が痛くてあまり食欲がないし、心身を整えるために久しぶりに少し断食をするのもいいなと考えている。それにしても眠くて、春眠暁を覚えず、という言葉が頭の中を何度もぐるぐると回っている。