2023.03.04
今日はスタジオに行くつもりにしていたけれど、歌は家で録ることにしたのでスタジオはキャンセルした。日中のうちは外の音がいろいろとするから、夜になったら録り始めよう、それまではゆっくり家のことをしたり練習をしたり、とか、しよう、あとは自転車でカルディに買い物に行こうかな、とか考えていれば急な用事が出来、昼前に家を出て電車に20分ほど乗りって出掛けてきた。しかし用事はあっという間に済んで、近くのカルディにも寄って、それから本屋さんにも、と思ったけれど、カルディで缶詰やらレモン果汁やら蜂蜜やらやたらと重いものばかり買ってしまったし大きな駅ビルの中をそれ以上ふらふらする気持ちにならなくてさっさと帰ってきた。あっという間に春のような陽気で、帰り道の橋の上をゆっくりゆっくり、歩いた。部屋に戻って洗濯機を回してコーヒーを淹れて、駅前のスーパーで買ってきたお豆の蒸し羊羹を食べてぼーっとする。わたしは和菓子が大好きでなかでも羊羹がとても好きだけれど、練り羊羹より水羊羹より蒸し羊羹がどうやらいちばん好きなのらしいということにいまさら気がつく。
最近ときどき聴いているプレイリストで知ったRenata Zeigurというアーティストのアルバムが良くて聴きながら帰ってきて、電車の中で名前をなんと読むのかしらと思い調べてみれば(レナータ・ザイガーと読むのらしい、そういえば大学にジグラーという姓の友達がいた、スペルはどんなだっただろうか)出てきた記事に、アルバムにはSam Evianが共同プロデューサーとして参加していると書かれていて、なるほど言われてみれば確かにSam Evianの音なのであって。彼は去年出たBig Thiefのアルバムでも何曲かプロデュースをしており、なにかで見かけたスタジオの写真がとても素敵でそういえばどこにあるのだろうかと調べてみればニューヨーク州のカナダにほど近い外れの方で、わたしの通っていた大学に近いというほどでもないが遠くもない、といった場所にあった。そうして彼に一緒に制作をしてくれないか、とメールを送る自分を想像し、どんなふうにしたらそれが実現できるだろうかと考えた。
数日前、馬奈木厳太郎氏の性加害についての報道が出た。わたしは氏とWeNeedCultureやみんなの未来を選ぶためのチェックリストといった活動を共にしており、懇意にし、そしてとても信頼をしていた。きのう被害者の会見が行われ、夜になってからその内容をネットの記事で読んだ。まったく、まったく酷いものだった。最低最悪だと思った。それはわたしがもっとも嫌悪する類のものだった。強い、はっきりとした怒りと、深い失望。そしてそのあとに同じくらいの強さでもってやってきたのは既視感だった。これまでに近くで遠くで幾度も見聞きしてきたこと、そして自分自身も経験してきたことだった、ああ、と思う、はっきりいって、誤解を恐れずにいえばありふれた出来事だ。ありふれている。あまりに。どこでだって起きている。知らない、知られていないだけだ。ではわたしはなににショックを受けているのか?それを、自分が信頼していたひとが、セクハラ防止を訴え講習などの活動を行ってきたひとが、行った、ということだろうか。だけど考えてみれば、それすらも、そういう裏切りや落胆すらも、なんら目新しいことではなく、ありふれている、あまりにありふれているのだった。そうしてそのありふれた無数の出来事の、なかったことにされているそれらひとつひとつの影に存在している、声をかき消されたひとりひとりのことを思った。今回の被害者の女性のことを思った。彼女たち彼たちわたしたちの、暮らし、日々、生活、こころ、そのひとつひとつの存在とそして奪われたあまりにも大きなもののことを思った。
そうして、思う、ありふれているからといって、慣れるということは決してない。何度殴られようと飽きもせず血は出て痣も出来て毎回毎回、何度でも、ずっと痛い。わたしたちは何度でも傷つく。
きのうの夜、ツイッターをだらだらとスクロールして、渦、渦、渦、思惑、出来事、交錯、不毛、渦、渦、渦、をみるともなくみながら、ほんと地獄だなと思って、音楽は文字通りわたしの生きるよすがだ、と思った。