2024.11.21
子どものころ、というか、大人と呼ばれる年齢になって社会というものに出るまでずっと、世の中のすべてのものには決められたルールがあり、みんなそれに従って行動しているものだとばかり思っていた。だから何にせよいちいち自分で考え、取捨選択し決断し、そうしてひとつずつ物事を進めていかなくてはいけないのだ世の中というのはそうして成り立っているのだということを知ったとき、本当に、本当に驚いたものだった。どうしてそんなふうに信じていたのだろう、だけど思い出したけれど、小学生のとき、中学生の姉のバスケットボールの試合を母に連れられて初めて観に行ったとき、選手に上手い下手や優劣があるというのが不思議でよくわからなかった。先生なりコーチなりに言われた通りのことをコート上でするだけだと思っていたからだ。
誰か、あるいは何かが決め、教えてくれるものだとばかり、きっと思っていたのだ。しかし蓋を開けてみればもちろんそんなことはなく、自分で決め、そしてその決定の責任を自分で負わなくてはいけない。あまりに子ども染みているのだろうと思うけれど、それでも未だにその事実に圧倒され、そして怖しいと思う。心底そう思う。
わからない、と思う、大人になればもっとちゃんといろんなことがわかるようになると思っていた、しかし実際はわからないということがますますわかるだけだ。村上春樹氏が、結論はなるべく留保し先延ばしにして、そのときのその場面をなるべく仔細に記憶し、自分の中の引き出しに仕舞っておくのだと、そういうものが小説になっていくのだと、書いていた。わたしはいつも結論が欲しくて、だから何でもかんでも判断が必要だった、好き、嫌い、良い、悪い、要、不要、そしてそういう自分をいやらしいと思っていた。だからわからないものはわからないままでいいのだと、むしろそのことが創作の血肉になるのだと、そのひとつの事実にたいそう肩の荷が降りたような気持ちがした。
最近知り合ったひとがポッドキャストをやっているというので聴いてみれば、自分の話を延々と、たとえば高校のときはこんなことが好きで成績はこんなでどんな生活をしていて、とか、そんか話を延々としており、なんというか、実に面食らった。わたしは昔から基本的に自分の話をするのが苦手だし好きではない(気心の知れたひとと楽しい酒を飲み非常に気分の良いときだけは例外)ので、自分の話をなんの疑いもなく自ら進んでするひとに出会うと面食らう。心底驚く。相手が自分に興味があると、自分の話に方があると、心から信じている、そのありように。自己肯定感が高く育ったひとにのみ成せる術に違いなく、だから羨ましくもある。
10月はたくさんのひとに会う日々だったから当面は家でのんびり過ごそうと思っていたのになんとなく寂しくひと恋しいような気持ちになっていてこれはなんだろうか。なにというわけではなくただ誰かに会い、話がしたい、というような、なんかそんな。東京にひとりで暮らしていたころ、ひとりでいるときにスマートフォンを開いてもメールにもSNSにもなにもひとつも通知がないのをみて「いまこの瞬間、この世界でだれひとりとしてわたしに用があるひとはいないのだ」と思うと果てしない気持ちになった、そういうことが度々あった、そのことをさっきふと思い出した。