2025.02.28
頭の中がひどくうるさい。自分の外側はこんなにも静かなのに、脳の内側だけがひどくうるさい。だけどいろんな声がそれぞれ好き勝手にあっちからこっちから響いているのでただわんわんとうるさいだけでなにがどううるさいのかもよくわからない。こういうときこそ必要なのに、最近毎朝30分ほぼ苦なく出来るようになっていた冥想もここ数日10分、15分が限界ですぐ目を開けてしまう。
いろいろとすっかりどうしようもなくなったので少し違う場所でひとりになろうと思い、きのうまで数日家を出ていた。近過ぎずだけど遠過ぎない場所に一棟貸しの手頃な民泊の宿を見つけ、ドライブがてら途中でいろいろ道草をして行ったことのない場所にもいくつか行った(ギターや服や食料やあれこれをトランクに積み込み、まるで家出だ、と思った)。たまたま通りかかった道に灯台の道路表示が出ていたので行ってみるとぐるり一体に寒桜が植えられておりとても綺麗に咲いていた。初老の夫婦がおり、男性は柵のそばで海を眺め、女性はスマートフォンで熱心に桜の写真を撮っていた。わたしが少し立ち止まってその様子をみているとわたしの気づいた女性が少し恥ずかしそうに笑いわたしに向けて会釈をした。灯台というものがなんとなく好きで、旅先にあるとなんとなく寄ってしまう。奄美でも淡路島でも行ったな、と思い出した、行ったとてべつになにがあるわけでもないのだけど、白くて丸くてこっくりした佇まいと、何もない大抵は崖のような吹きっ晒しの海辺にぽつんとある感じ、それがなんとなく好きなのかもしれない。わたしの経験からすると灯台は中に入ることはもちろん、上に登ることもたいていの場合はできないけれど、その灯台には小さな螺旋階段とその先に灯台を周りを一周囲う細い通路があり、わたしは思わずおお、と声を出して感激した。最近日中はすっかりあたたかく、その日はとくに天気がよくほとんど小春日和だったのでインナーにフーディーという薄着だったわたしは強くしつこい海風に吹き付けられてあまり長くはその上にいられなかったけれど、灯台に来た、そしてそこに登った、ということに満足した。駐車場と灯台を結ぶ通路には水仙がそこここにみっちりと咲き乱れていて、きついくらいの甘い香りがした。橋の上から足元に岩に打ちつけ白く砕ける波を眺めて「どうしてわたしは海じゃないんだろう」と思った、そしてそう思った自分に少しびっくりして、友部正人さんのエッセイの「自分が車じゃないということが身に染みる」という文章に衝撃を受けたことを思い出した。
近くにそういえばいつか知人に聞いた感じの良いカフェがあるということを思い出してそこに狙いを定めて行ってみたが定休日で閉まっていた。いつものことだ。向かいにはやたら広々とした海沿いの公園があり、役所の職員や市民と思われるひとたちがわらわらと何をしているのかと思えば植樹をしていた。ベテラン職員と若手職員が二人一組になって軽トラックに乗り、少し進んでは止まって降りて、荷台に積んである大きなタンクからじょうろに水を汲み植えられたばかりの苗木に水をやり、またトラックに乗り込み、ということをしていた。わたしは道の駅で特に食べたくもないソフトクリーム(なにかのみかんとバニラのミックス)を買って食べ、すっかり胃を冷やした。
あたたかいコーヒーが飲みたかったなと思いながら道沿いに車を走らせるとなにもないところにぽつんと駐車場があり、通り過ぎかけたけれどなんとなく気になって車を停めると浜へ続くと思われるほとんど秘密と言ってもいいような草木に覆われた細い通路があった。わたしはどこに行ってもそういうものに強く惹きつけられてしまうので例によって吸い寄せられるように降りてみるとそこは湾になったまさに秘密の浜だった。激しいというほどでもないが静かでもない波が白い泡とともに渦巻いて、風が強く、漂流ゴミが風に吹かれて足元を飛んでいった。わたしはあぁここだ、という気持ちになって、大きな流木に座ってほんの少しの間ぼーっとして、来た道を登り再び車に戻った。宿へ向かう途中、海に沈んでいく夕日がこれ以上は染まれないというくらいに真っ赤でわたしはあぁこれが焼けるような空だ、と思った。
宿はひどく寂れた場所にあった。静かな静かな真夜中に久しぶりにひとりで少し酒を飲むなどし(予想に反してほとんど酔わなかった)映画をいっぽん観て本も読まずにさっさと眠った。
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数日会わなかったのできのうはわたしが小さいひとを保育園に迎えに行った。いつもしばらく家を空けるときにはちゃんとそのことが彼女にもわかるようになにかしらの行ってきますを示してから出掛けるのだけど、今回は思いつきでいきなり出てしまったので少し気になっていた。教室の窓越しにわたしを認めた彼女は、いつもならわたしの名を呼んで駆け寄ってくるのに、しばらくなんとも言えない複雑な表情をしてすごすごとゆっくりわたしの方へ来た。わたしはあれ、と思ったけれど努めていつも通りに接し、帰りはふたりでスーパーで少し買い物をし、浜辺でしばらく砂遊びをし、そうして家に帰りみんなで夕食を食べ、すっかりいつも通りだと思っているとふいに彼女が「のんちゃんががたんがたんに乗って行っちゃうとさみしい」と言った(がたんがたんというのは電車のことで、わたしが家を空けるときは大抵電車に乗って東京に行くのでそのことを指している)。わたしは泣きそうになって、彼女を抱きしめた。こんなに小さな体でいろんなことを感じて考えているのだと思うとどうしようもなく切なかった。
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どうせわかり合えないなら言葉を尽くすことになんて何の意味があるだろうか、と最近はよく考える。とても近しいひとがあるとき「本当のこと言うのってなんでこんなに難しいの」と言った、本当のことを言葉にするのは難しく、それを口にするのはさらに難しい。それでもわたしは性懲りもなくこうして言葉を書き綴り一生懸命に曲を作り言葉を絞り出している。そのぜんぶというのはいったいなんなんだろう。ぜんぜん、ちっともわからない。そうしてわたしはずっと相変わらず途方に暮れている。今日はぱらぱらと雨が降り、寒い。日に焼けてどのページも真っ茶色なった古本で買ったヴァージニア・ウルフの「灯台へ」(わたしのはとても古いので「燈台」の表記)はずっと読みかけのままベッド脇に積まれている。