2026.06.29
へんな音で目が覚める。なにかをやすりで削っているような、擦るような、背中がざわっとするような音。きのうは12時には布団に入ったので今朝は起きられるだろうという予測のもと7時にアラームをかけていたけれど二度寝し三度寝し、浅い夢をみていた。懐かしい友達たちと懐かしい場所でよくわからない遊びをしていた。濁った沼のみどり。音の正体はどうやら近所のなにかの工事らしい。けっきょく9時。きのうはなんだかひどく疲れて、おとといに酒を飲んだせいか夜中に甘いものを食べたせいか、だから今日はまあゆっくりでもよろしい。この一週間はなんだかよく働いたし、と思うけれどこれくらいべつにふつうか、と思うけれどそんなのはべつにほかと比べることでもない。うすぼんやりとお腹が空いている。久しぶりにパンケーキでも焼こうかなと思うけれどけれど冷蔵庫にいただきものの和菓子がある(わたしはいま祖母のマンションに住んでいるのでその関係でときどき叔父に会うのだが、彼はわたしが和菓子好きなのを知っているのでほとんど必ずお土産をくれる、最近はあまり砂糖を摂らないようにしているから要らないと伝えたいけれどその方法がわからずわたしは毎度うっすらよくわからない自己嫌悪みたいなものを感じることになる)。めずらしく洗濯ものがたまっているのでとりあえず回す。今日はブランケットを洗いたいので2回回す。回す回す回す。
死ぬことは可能性が、その一切が消失することだと書いたけれど、でもそうでもないな、ということに気づく、なにかをそのひとが遺していれば。それはたとえていうならゴッホみたいなことで、そのひとの遺したそのなにかが、どこへどんなふうにたどり着きだれにどんな影響を与えるか、いうなれば無限の可能性があるではないか。それはべつにアート作品に限らずとも、そのひとが大切にしていたなにかとか、どこかで買ってきた小さなおみやげとか、一枚の写真とか、手紙とか、そういうものでもあり得ると思うし、なんでも、ということを考えればほとんどの場合においておそらくは可能性は残る、残り続けるのだ、それが生きて死ぬということだ、ある意味においては。たぶん。
知り合いが読んだ本の話をしてくれたことがある。その本によれば、人間のあらゆる行動原理はつきつめれば死を回避するその一点にのみあるのだ、ということらしい。うむ、なるほどね、で、それについてどう思うの?と訊くと”it makes complete sense! (いやめちゃくちゃよくわかるよ)” と言った。彼は小説を書くひとだったけれど、小説を書けば自分が死んだあとも遺るなにかを遺せる、というようなことを言っていた。いま思えばそんなのはなんというかクリシェだとも思うけれど、わたしはそういうモチベーションや期待をもって音楽をしたことがないのでただただ不思議な気持ちだった(正直にそういうと「音楽は生モノだからこのアイデアに対抗しうる唯一のものかもね、みたいなことを言った、そういう小難しい話が好きなひとだった)。しかしわたしの意図にかかわらず、わたしが死んだあとも音楽がのこるというのはまた確かなことで、のこる、のこってしまう、そのことについて考えるともなく考える。もしどこかの誰かが出会ってくれてなにかを思ってくれてそこでなにかが生まれるなんてことがあればそれこそ文字通り本望だ、とももちろん思う、でも同時にいなくなってしまえば関係ない、知るよしもない、とも思う。けっきょく期待や想像の域をでないじゃないか、と
留学時代の友達でひとりとても聡明なひとがいた、わたしよりいくつか歳がうえでわたしはなんとなく彼に懐いておりよく話しをしたのだけれど、彼はいつも「言葉遊びだと思うねんな」と言った。いろんな思考や思想や、そういうものというのは確かに言葉をこねてこねてこねくり回す、そのことでしかない、なぜなら思考も思想も言葉でしかあり得ないからだ、最近はじめてプラトンを読んでいるのだけれどまさにというかこれ以上ないほどに単なる言葉遊びでたいへん愉快な気持ち。
そうしてわたしはここまでで2回の洗濯を干すところまで終え、小さな和菓子も3つ、しっかりと食べ終えている。自己嫌悪はほぼない。今日は一日だらだらずるずる生きる、そのことの至福。ものすごい湿度のなか、とりあえずかたまった体を伸ばす