2024.02.19
小学校高学年のころ、とても仲の良い友達が3人いて、わたしたちはいつも4人でつるんで遊んでいた。周りにも「仲良し4人組」といった感じで認識されていたと思う。わたしたちは“親友”だった(そういえばタイムカプセルを作ったような気がするけれど、あれはどうしたっけ)。わたしは中学を卒業するくらいまで、思っていることの大抵は口にしていいと思っていたので実際そのようにしていて(恐ろしいよね)、だから友達付き合いに関して、ときどき遊ぶ、くらいの距離感だったべつの友達に言い回しは忘れてしまったのだけど「わたしにはあの3人がいるからほかの友達はいてもいなくても究極べつに、まあ」みたいなことをしごく真面目にそしてまったく悪びれずに言い、そしてその発言に関してその子から「傷付いた」と告げられて「えっ」と思った、そのことを思い出していた。
もしかしたら、未だにそう思っているところがあるのかもしれないわたしには。好意を抱くひとや、興味を惹かれるひと、話してみたい知りたいと思うひと、というのはもちろんおり、そういうひとたちとは出来れば良いお付き合いが出来たらと思うけれど、でもひとと付き合う、というか向き合うのにはとても気力が要るから、例えば少しシビアな状況になったり気になることがあったときに、それをどうにかこうにか乗り越えてあるいは乗り越えるための努力をしてまでそのひとと付き合いたいんだろうか、というふうに天秤にかけてしまう、そしてその結果いやちょっと離れよういまはそこまで元気もないし、といったふうになってしまう、ことが多い。いまわたしはこうしてほとんどの友人知人と離れた場所で暮らしていて、その物理的距離が多分に影響しているあるいは単純にいまがそういう気分なだけかもしれないという気もするそしてこういうことを考えていると自分はやっぱりひとでなしなのだなという気持ちになる、一方で実際人付き合いというのは概してそういうものなのかもしれないという気もする。あっちにもこっちにも本気で本当を、なんて現実味がない。それよりも分かり合えない、そもそも違う人間なのだし、ということを踏まえた上でそれなりにうまくやっていく、みたいなこと、がつまりはだから処世術とされるのでしょうね。と思うけれど、でもそんな感じの人付き合いって必要?という気がいまはするのだった。まあでも関係性というのは流動するものだから、ということもあるんだけど。
今日も雨。今日はこの数日でいちばんたくさん降った。生ぬるく、ひどい湿気。iPhoneが壊れてほとんど使えないので、不便といえば不便だけどでもそれほどでもなく、それよりもそれを眺めている時間がなくなった意義の方が大きいように感じる。いずれは新しく買わなくてはいけないけど、しばらくはこのままでもいいかもしれない。週末、同居人が大根の葉っぱでお好み焼きをすると美味しいらしいと言うので、たくさん作った。お好み焼きなんて本当に久しぶりだったけれど当たり前に美味しくて、適当に作ったけれどちゃんとお好み焼きで、ぱくぱくとはち切れそうになるまで食べた。ソースとマヨネーズをここぞとばかりにたっぷりかけて鰹節もたくさんのせて、なんか楽しかった。小さいひとが「はこう、はこう、鬼のパンツ〜」の歌を「はこう、はこう、ぱんちゅ〜」と歌っていてそれがとても可愛い。