2025.01.12 新しい

きのうは何となく歩きたい気持ちになり、お昼前に家を出て電車に乗って、少し離れた駅で降り、出口近くのカフェでラテをタンブラーに入れてもらい(デカフェとオーツミルクのオプションにしたら会計が900円で、東京!!と思った)、日当たりの良いテラス席に座って朝の光を眺めながら思い浮かんだいくつかの言葉をノートに書き留め(どうして光というのは白いのだろう)すぐその向かいにある本屋で本を二冊買い(良いタイミングで買おうと思い9PARTYでは買わなかった佐久間さんの訳書『編むことは力』が置かれており、最初のページの数行を読んでみればこれは、と思いすぐに購入)、それから隣の駅までとことこと歩いて、今度は駅前のパン屋さんできのことなんとかという、ソテーしたきのことクリームソースの乗ったパンとバナナブレッドを買い、そのまま多摩川沿いに出て土手の道をずーっと歩いた。

いつだったか同じようにこの道をひとりでずーっと歩いたことがあった、その日わたしはギターを背負っていて、なぜギターを背負っていたかといえば朝から渋谷のHOMEでKIMさんと一緒にレコーディングをしていたからで(『あこがれ/Losing My Heart』というシングル)レコーディングが終わったあとそのまま渋谷でひとと待ち合わせてお茶を飲むなどしたのだけれどわたしはその会合によってたいそうしょんぼりというか途方に暮れたようなどうしていいかわからないような気持ちになりほとんど黙ったまま駅の方に歩みを進め別れの挨拶もろくにせず電車に乗り込んで、そうして歩くつもりでもなかった道を結局ずーっと家まで歩いてしまったのだった、あれはわたしが加計呂麻に行く直前だったからきっとものすごく暑い時期だったはずなのだけど、暑い中汗をかきながら延々歩いた、というような記憶はなく、ただぼんやりと薄暗がりの中を淡々と少しずつ少しずつ歩いた、というような記憶だけが残っておりそのことを不思議に思った。別れ際に見せたよく知った相手のしかし初めて見た表情を、いまでも薄っすらと憶えている。

三連休初日土曜日の川沿いでは様々な年齢の主に少年たちが野球やサッカーや陸上といったスポーツに励んでいた。わたしも中学高校と運動部で、休日はほとんど部活動に費やすような生活をしておりそれになんの疑問も抱かずに文字通り一生懸命に取り組んでいたわけだけれど、あれは一体なんだったのだろうといまになると思う。すべてが無駄だったとは思わないけれどほとんどが無駄だったと思う。ほかにもっともっと有意義な時間の使い方が、もちろんわたしの場合はという意味だけれど、あったなと思う。せめて高校では他のことをすべきだったと今では強く思うけれど、でも当時は様々にあったはずの選択肢がほとんど見えていなかった、十代を振り返るとそういうふうに思うことは部活動に限らずとても多くある。

ちょうど良い木陰を見つけたらその下に座って買ったパンをタンブラーに残ったコーヒーと一緒に食べようと思っていたのに歩けど歩けどそんなものはなく、家に帰るのに川沿いから逸れる橋のほんの手前の辺りで諦めて陽の光が燦々と照りつけるなだらかな傾斜の上に腰を下ろした。長く歩いてぽかぽかしていたのでコートも脱ぎ、なんとなく裸足になりたくなってブーツも靴下まで脱いでしまって、そうしてパンとコーヒーと本を広げるとあぁこれはひとりピクニックだなといつになく楽しい気持ちになり、いまたったひとりでこんなふうに時間を過ごしているということにたいそう満たされたのだった。そうしてパンを齧りながらスポーツに励むひとびとを眺めた。

遡って木曜日の9PARTYはとても良い時間だった。年始早々好きなひとたちにいっぺんに会えたこと、有意義で安心できる対話の場に参加できたこと、すーっと潜っていって良い歌が歌えたこと、新しく作った曲を初めてひと前で歌ったこと、Dawnを聴いて初めてライブに来てくれたひとがいたこと、CDとレコードをたくさんのひとが手に取ってくれたこと、などなど。

今回の東京滞在ではあまりゆっくり本屋に行く時間がないかもしれないと思っていたのだけれど、バックパックブックスの宮里さんがたくさん本を持ってきてくれており、ゆっくり選んで5冊ほど購入。そのうちの一冊にいつかなにかで見て少し気になっていた『目を開けてごらん、離陸するから』(大崎清夏)があり、翌日から読んでいるのだけれど、あぁこれはわたしがいまとても必要としていたものだ、というか、それともまた少し微妙に違うのだけれどとにかく心にどんどんどんどんと沁み入ってきて、わたしは心の中で何度も泣いた。大崎清夏という著者の存在さえわたしは知らなかったけれどどうやらわたしより少し年齢が下の詩人、なのらしい。こんなに素晴らしい書き手がこの世代に、この国にもいるんだな、いやそりゃいるよな、知らなかったな知れてよかったな、と思った。

何か新しいものに出逢うということについて、考える。それはどこにあるのか。自ら探しに行くべきものなのか、それとも偶然あるいは必然的に巡り合うものなのか。どうなのだろうね。「新しい」の定義を「自分にとっての未知」と位置付けるならばわたしは意図的であれ無意識であれある程度定期的に新しいものに出逢っている、と思う、だけど「新しい」を「現在進行形で生み出されている誰にとっても新しいもの」と定義するならば、わたしはあまりそれらには出逢っていないだろう。自分より下の世代の音楽や文章やその他文化には触れる機会がとても少ないように思う、そしてそのことが意味することや導く結果というのは、いったいどういうものだろうか。わからないけど、でもわたしはこうして出逢うべき言葉に出逢うべきタイミングで出逢えたのだ、有り難いことだ。

今日は予報通り雪になるだろうか。窓の外の空がきのうとは打って変わってどんよりと白んでいる。