2026.06.23

きのう。久しぶりの友達と代々木八幡で野菜もりもりのランチを食べ、さまざまの犬たちが行き交う遊歩道沿いのテラスに座ってコーヒーを飲みアイスクリームを食べた。ほどよい曇りで、それがとてもよかった。一匹、見惚れてしまうほどほんとうに美しい犬がいた。飼い主と同じグレーの毛をしていた。わたしも彼女もふだんは聞き役にまわることが多い(自称)が、わたしも彼女も途切れることなく昼から夕方まで、自分たちでも驚くほど喋りつづけた。わたしは彼女のことがとても好きで、彼女の撮る写真がとても好きで、でもなんか、彼女もわたしを好きでいてくれて、わたしの音楽も好きでいてくれて、そういうのはこしょばい。が、そういうのもだいぶ受け取れるようになってきた、そういうことも話した。わたしのことを変わっている、ユニークだ、おもしろい、と彼女はいって、わたしはよくいわれるその言葉をしかしやはり具体的には理解せずにぼんやりと受け止める。でもあなたのほうこそ、と思う。そのことも話した。彼女のまわりにはわたしのまわりにはいないタイプの女子たちがおり、その話をきくのはとても興味深いことだった。わたしたちを取り巻くたくさんの呪いよ。終わることのない、ようにみえるが終わらせたいそれたち。そのことも、あのことも、あのことも、たくさんたくさん話をした。そうしてそれでも話し足りず名残惜しい気持ちで夕方にハグをして別れた。駅の改札まで送ってくれた。なんにしても話ができるというのはなんと尊いことだろうか、という気持ちですっかり元気になって家に帰り、少しだけ仕事をして、家のことをして、走りに行って、湯船に浸かって、ほとんど完璧な一日だったけれどなぜか夜中に何度も目が覚めて、だから今日はずっとうすぼんやりとしている。

そうして日々は過ぎ、さらさらすいすい過ぎ、わたしは、ふわふわしたままだなあと思うけれど、どうなのだろうか。どうなのだろうね。

夜、録音を手伝った友達から連絡がきて、エンドロールのクレジットの表記はこれでいい?ときかれた。エンドロールにわたしの名前が載る。初めてのことだ。

嬉しいことは、日々、そこここにある。ほんの小さな風、ひかり、木漏れ日。揺れ。悲しいことは、たくさん、ある、そこここに、いつも潜んでいて、とつぜん現れて、ぶつかってきてさ、そういうぜんぶを足したり引いたりしてどうにか辻褄をあわせたりごまかしたりして、それが生きるってことだろうかそうだろうか、知るわけもないわかるわけもないわかりたくもない、

死ぬというのは可能性がなくなることだ、と書いたけれど、であるならば、生きているということは可能性が、ありとあらゆる可能性があるということだ、可能性とはつまりなにかといえば、それはつまり、やっぱりどうしてどうして希望なのだった