2023.04.16 巡り巡っている

この家に引っ越してきてからというものつまりこの2年半の間ついぞ出来なかった早起きというものがこの一週間ほど急に出来るようになった。ノートに言葉を書いているときに、ふと明日からは一時間早く起きよう、と思ってそれは本当にただ思っただけだったけれど、その次の日から起きられるようになった。ずっと出来なかったことがある突然出来るようになることというのは時折ある。理由は不明。気分とタイミングだろうか。しかし誰の。

そんなわけで今朝もすっと7時半に起床。ゆっくりヨガと瞑想をしああ穏やかなんという平穏、という気持ちでジャーナリング(と言うのらしい、音楽を作らせてもらったkakimoriの動画を見て知った)をし、それから丹念に部屋の掃除をし、そのまま気になっていた小さなあれこれをやってしまおうという気持ちになって植物の手入れをし、冬はとっくに過ぎたのに出しっぱなしになっていたヒーターや加湿器をしまうなどして、勢いのままにすっかりくたびれてしまっていたオールドコーチのショルダーバッグを何年かぶりに磨けば見違えるように黒々と美しくなってたいそう満足。丁寧にしっかり作られたものというのはやっぱり素晴らしいなとしみじみ思い、そしてそういうものだけに囲まれて残りの人生を過ごしたい、そして願わくばそういうものだけで構成された世界になっていきますようにとこころの中で思う。もう随分前にふいにいただいたわたしのオールドコーチ、いつの時代にどこかの誰かが使っていたであろうこのささやかな存在を、わたしの後にも誰かが使ってくれるといいなと思った。

引き続き過去について考えている。うっすらと、去年の終わりごろから、過ぎた事柄を整理するような出来事が続いていて、それもそれできっとそういうときなのだなとぼんやり思っている。きのうの夜パソコンでメールを開けばまた昔のメール群がどどどんと表示されるのでなんだか愉快な気持ちになって目についたいくつかを開いてみる。忘れていたというかちっとも思い出せないのだけどそのメールアドレスはアメリカに行く少し前に作ったようで(つまり19のとき)異国の地に出かけていく当時のわたしに友人たちからの激励の言葉がたくさん送られてきていた。アメリカに行く前、地元の友人たちがサプライズでいってらっしゃいの会を開いてくれて、写真と寄せ書きを綴じたアルバムをくれてわたしは号泣した、そのことはずっと憶えている。アルバムはもちろんアメリカに持っていき、いまも実家のクローゼットにずっと大事にしまってある。今度帰ったら久しぶりに開いてみたいような好奇心が湧くけれどそれよりもちょっとした怖さみたいな気持ちが勝っている。これはなんだろう、こしょばさみたいな気持ちだろうか。受信ボックスにずらっと並ぶ差出人を眺めてふと目についた母からのメールを開けば「あなたって自分の言いたいことしか送ってこないのね。メールってやり取りだからこちらの質問にも答えるんじゃないの?」とのお叱りが書かれておりおかしかった。幼かったわたしよ。そのあとちゃんと謝っただろうか。なんというか、思い出は思い出として、過ぎた日々は過ぎた日々としてそのまま置いておけばいいと思うけれど、そういう中でももう要らないなとはっきり思う出来事や記憶というのもあり、そういうひとからのメールをひと通り削除すれば肩のあたりがすっかりすっきりしたような気持ちになるのだから不思議なものだった。

今日は朝から出掛ける予定にしていたけれどきのうの夜にキャンセルになって、この間のお花見もなくなったし、なんかいまはそういうタイミングなのかもしれない(ぜんぶタイミングだわ、という話をこの間友達とした、ありふれた言葉ではあるがやっぱり真理であると思う)。きのうは文章の日と決めていたのにギターを弾きはじめたら一日ギターを弾いて終わってしまったところだったのでちょうどいい、少しずつ、ひとつずつ、やる、自分のペース、タイミングで。それにしても窓の外がめきめきと晴れてきておりなんという気持ちの良さであろうか。世界。