2022.06.11 耐えず反射している

君の街にも雨は降るのかい

というのはシャムキャッツのEPのタイトルであるが、なんとなく数日前から頭の中で流れておりゆっくり聴こうと思いながらその度に忘れてそれを何度も繰り返していま。例えばちょっと調べものをしようと思いスマホのSafariを開けばそこには忘れたままになった別の気になる事項が表示されていて、あ、と思ったときには調べようと思ったその事柄をもうすでに忘れているのであって、そのように日々の中のあちこちにあれこれが罠のように散りばめられており

弟とその妻と、祖母と母と父と、今日はこれから祖母と弟と弟の妻の家の近くで食事をする。祖母は千葉の団地に長いこと暮らしているのだけれど、弟が結婚してその数駅離れたすぐ近くの土地にマンションを借りて住み始めた。弟夫妻は一度祖母の家を訪ねて行って挨拶をしたそうだけれど、祖母としてはもっとゆっくり聞きたいことや積もる話があるそうで、それではということで今日の会が設けられたのらしい。わたしはおまけのように一応誘われたのでのこのこと出掛けていく。

昨年の姉の出産から始まり、弟の結婚、義妹の妊娠もうすぐ出産(というのを弟の、に掛ける場合どういった表現があるのかこの間考えているのだがずっとわからない)と我が家はニュースが続いており、それに伴い家族の関係性が日に日に形を変えているのでわたしは少々困惑。だけれどもそのあり方に正解はないからやっぱりわたしたちが作っていくさもなくば自然にできていくというかなるようになっていくものなんだろう。

家族にまつわる、わたしがよくわからなくてどう受け止めたらいいかわからないと思っていることがあって、この間地元の親友に話してみたら「何と言っていいかわからない」「どう反応していいかわからない」とまさに顔に書いてある、というような表情をしていて、わたしはそれをみて、あぁやっぱりそうだよな、と思って少し悲しくなったけれど、でも彼女のそういう素直さ率直さをわたしは信用しているのだし好きなのだよな。

そのことを、その話を、ここにも書きたいと思うけれどなんとなく書くのが怖くて、それはなぜだろうかと考えている。①とてもパーソナルな話だから②わたしひとりだけの話ではないから。書いてみると簡単なことだ。

包み隠さずあれこれを書き綴るエッセイストたちのエッセイのいくつかをわたしはとても好きだし素晴らしいと思ったりもするけれど、それは一方で果たして誰かを傷つけていやしないのだろうかということをいつも考えてしまう。本当のところはわからないけれど、少なくともわたしはそれはしたくないと思っている

ぼーっとしたまま千葉に向かう電車。今日は文庫本を2冊鞄に入れてきた。薄っすらと混乱しているところにわたしはさらに言葉を詰め込んでますます混乱するのかもしれない。いろんなひとの言葉や態度が今日も頭や胸のあたりを絶え間なく行き交っていて、それだけでも追いつくのは難儀なのに、さらにそのひとつひとつがわたしの中で乱反射して、光が、あっちにこっちに、伸びて、交差して、だから、もう、なにがどれでなんなのか、わかりようもなく、ただただ煩い。ほんの数歩でも下がって、少し離れたところから見たらきっと綺麗なのだろうに、といまふと思った、はじめて。