2023.01.06

新年早々大きな失敗をしてしまい、ずるずると重たい気持ちに引っ張られている。ひとと関わる限りつまり生きている限り誰かを傷つけることを避ける術はない。減らすことはできても、ゼロにすることはできない。去年も似たようなことをよく考えていたけれど、今年も引き続き思いを巡らせることになりそう。年始早々示唆的な、なんだろうかいったいこれは。

1月1日は祖母の誕生日なのでここ何年かは毎年千葉の祖母の家でみんなでお祝いをしていたのだけど、大人数が集まると祖母が疲れてしまうのらしく、今年は叔父家族が1日に行くということになり、わたしたちは家でのんびりというかだらだらして、お昼ごろにそろそろと初詣に出掛けた。日本の神社の多くが加盟している団体が性的マイノリティを差別する冊子を配り、同性婚や選択的夫婦別姓にも反対しているというニュース以降お詣りという行為にすっかり懐疑的になっており、しかし池上本門寺は寺だし正月だし暇だしといった感じでおざなりに両親にくっついて出掛けて行ったわたしだったけれど、参拝に並ぶ列の中で、境内の「樹木葬150万円〜」というポスターが目に入ってすっかり興醒めしてしまい列を抜けて両親のお詣りが終わるのをその辺をぶらぶらしながら待った。おととし父方の祖母が亡くなったさいに、亡くなったあとの名前になんとかという位の高い漢字を入れるにはプラスで何十万円というオプション費用がかかるという話を聞いて、わたしは本当にびっくりしてしまって、お金を払えばあるいは裕福なものだけが死んでなお優遇されるのかと愕然とする思いになったことを思い出し、わたしたちはいったい常々なにに手を合わせてなにに祈っているのだろうと、信仰について、そして信仰の伴わない単なる風習習慣について、考えずにはおれない年始だったのだった。

参道には出店に混じって原発や憲法改正に反対する署名活動を行うひとびと、それから日本共産党のひとたち、そして参政党のジャケットを着て登りを持って立っている若者たちの姿もありおおおお、とわたしは思った。

そんなして家に帰る途中で冒頭に書いた年始早々の出来事があり、わたしも悪かったことに間違いはないのだけれどそれにしてもあまりに運が悪かったとしか言いようがなく、お詣りしなかった因果だろうかと思わずにはいられないほどで、しょんぼりしたので夕方になってひとりでふらふら散歩に出て多摩川沿いを歩いた。夕陽に染まる富士山と子供たちがあげていたいくつもの凧をぼーっと眺めながら、誰かのことをなんだかんだと言えるほどわたしは大した人間なのかと自問自戒し、誰も誰かのことをなんだかんだと言えるほど偉くはないということ、そしてなんだかすっかり遠く離れてしまった大切な友達のことを、彼女の人生を、そしてわたしの人生を、分かり合えなさを、だけどそばにあり続けるであろうお互いの存在を、思った。

2日と3日はひとに会いよく食べよく飲み、久しぶりに友達の家に泊まってみんなで雑魚寝するなどして、なんかそんなこんなであれよあれよと正月は過ぎ去った。

4日になってようやくひとりになって、時間をとってノートに向かって少し言葉を書くなどしてあぁするすると始まった今年、2023年、今年はまずとにもかくにもレコーディングそしてリリース。上半期はおそらくそれで終わり、後半はどこかに行きたい、しばらくすーとどこかにいなくなりたい、そういうことを考えている。

振り返ってみれば外へ外へと向かっていた去年おととしだったように思う、今年は内へ内へ、もっともっと限りなくひとりになれたらいい、と思う。

どんな年になるかな。

本年も、どうぞよろしくお願いいたします。