2022.09.24 コントラスト

台風のゆくえをわたしはちっとも気にかけておらず、きのうまりちゃんから台風どうやろな、無理せんといてな、と連絡がきて初めて天気予報を調べて、そうして夜にはまたざーざーと雨が降ったのでどうだろうかと思っていたけれど、今朝起きていちばんに天気予報をみてみれば午後にはだんだん収まっていくでしょうといった様子だったのでまりちゃんに予定通り行く旨を伝え、お土産用にキャロブのケーキを焼いた。何度か作って美味しく出来たレシピのページを久しぶりに開いてみればなんだか記憶が曖昧で、しかもレーズンをちょうど使い切ってしまっていたところだったので代わりにバナナを入れたくなって、そんなことをしていたらあんまり上手くいかなく焼き直そうかと思ったけれどあまり時間もなかったのでそのまま持っていくことにした。前に遊びに行ったときにシャインマスカットを買って行ったらかやがとても喜んで食べていたのでなにかぶどうの類を、それからもうすぐ2人目の子どもが生まれるからまりちゃんにお花でもと思い乗り換えの立川の駅で少し買い物をしてから行こうと決め、雨が弱まるタイミングを見計らって早めに家を出た。

駅ビルの入り口のすぐ隣にあるお花屋さんで、野ばらと秋っぽい色味の鶏頭などを選んでブーケにしてもらい(まりちゃんは野ばらという名前の放浪喫茶をやっている、わたしはてっきり野ばらといえば野の薔薇なのかと思っていたけれど、店内の花瓶に生けられたそれは緑色の丸っこい小さな実の連なりだった)、それから地下の青果売り場に降りて種のない巨峰を選んで買った。前回まりちゃんの家に行ったときには買い物をしているうちにバスが行ってしまい、本数が少ないために約束の時間にずいぶん遅れてしまったその教訓を生かし今日は時間に余裕を持ってバスに乗り込むことができた。

まりちゃんたちがバス停まで迎えに来てくれるといって、でもわたしはまりちゃんが迎えに行ってくれたバス停のひとつ手前で降りてしまい(まりちゃんの家はふたつバス停のちょうど中間地点にある)入れ違いでわたしの方が先に家に到着し、玄関の前で数分ふたりを待った。まりちゃんの住むマンションは白い壁に蔦の植物がところどころ這っていて、その感じをわたしはとてもいいなぁと思っていて、雨に濡れるその葉っぱを眺めているとふたりが入り口に入って来るのが見えた。

会うのが久しぶりだったからかやははじめきっとそっけないかなと思っていたのだけれど、予想に反して会うなりわたしに駆け寄って太もものあたりにぎゅっと手を回してくれ、わたしは驚いて嬉しくて、まりちゃんへの挨拶もそこそこに一緒に家に入り、かやと一緒に手を洗った。かやに何歳になった?と訊くと「3歳だよ、でももうすぐ5歳!」といって指を4本立て、まりちゃんが惜しいな、4歳やな、と言った。かやがいちじくを買ってきたから一緒に食べようと言って、わたしもお土産の葡萄とケーキとそれからお花を渡して、まりちゃんが珈琲淹れるな、座ってて、と言って、わたしたちはお皿に盛られたいちじくと巨峰とそれからケーキと珈琲を並んでいただいた。まりちゃんのお腹は当たり前だけれどすっかりぱんぱんで、でもなんというか、前に妊婦姿を一度見ている(はず、たぶん、もしくは見ていないかもしれない、思い出せない)こととは恐らく関係なく、その姿があまりにも自然で、わたしは驚きとか感慨みたいなものはほとんど感じずに、でもお腹を触らせてもらえばふんわりと柔らかく、わぁ、という気持ちになった。

かやは相変わらず他に類を見ない天然の美しい縦ロールのやわらかい黒髪を湛えており、きれいに一本に編み込まれていたので可愛いねとまりちゃんに言うと「エルサにしてって言うで最近はずっとそれなんや」とのことだった。かやは異常なほどに元気で(事実まりちゃんが今日は特別、と言っていた)終始大騒ぎといった様子で、わたしの身体を何度もよじ登り、部屋中を駆け回って大声で突然叫んでみたり、あとはかくれんぼをしたり、絵を描いたり、歌を歌ってくれたり、アンパンマンのDVDを観ながら踊りを踊ったり、そんな風にして時間を過ごしていればあっという間に夕方になった。

バスの時間がギリギリで、まりちゃんが「うちらが行くと遅いから間に合わなくなるで」と止めるのをよそにかやは見送ると言って玄関で長靴をさっさと履いていて、道に出るとあっという間に駆け出して、そうしてわたしたちがバス停に着いたのと同時にバスが来た。ゆっくり別れを惜しむ間もなくわたしはバスに飛び乗り振り返って手を振るとまりちゃんと並んで手を振りながらかやがなんと「大好きよー」とわたしに向かって言って、わたしはびっくりしてしかしきゅうとなって、わたしも大好きだよと言ったところで扉が閉まった。

バスが走り出すと2人は一瞬で見えなくなって、そうすると運転手さんがマイクを通して「あのー手すりに捕まってください」とたいそう情感こもった声で言うので空いていた目の前の座席に座った。

かやと2人で汗をかいて遊んで、かやの体が床に座ったわたしの膝と太ももとお腹の間にすっぽりと納まっていたときに、懐かしいにおいがして、あぁ汗のにおいだと思って、でもそれがかやのにおいなのか自分のにおいなのかわからなくて、バスに揺られながらまだそのにおいがするような気がして、でもそれが自分の身体からにおいたっているのかあるいはわたしのスウェット地のワンピースに染み込んだかやのにおいなのか、やっぱりわからなかった。

そうしてお腹が空いたなぁと思って、家に帰ってひとりでなにか食べる気分でもなく立川でなにか食べて帰ろうと思い、めずらしくパスタが思い浮かび、いやそうでもないか、最近こういうとき割とパスタが思い浮かぶな、この1年くらい、それで、でもちゃんとしたイタリアンのお店のとても美味しいパスタではなく、なんか、なんでもないどうでもいいパスタが良いなと思って、しかしファミレスではなくファミレスと大差ないようなものを出しているのにちょっと気取ったもしくは小洒落た雰囲気を演出しそれによって値段が1.5倍くらいするような、なんかそういうパスタが良かったので駅ビルのレストランフロアまでエスカレーターで登っていき、目に入った和風パスタなるお店に入った。金髪と茶髪の中間くらいの乳白色の髪をひとつに結った若い女性の店員さんが席に案内してくれ、店内は割と空いていたのに隣にひとがいる席で、なんとなく話し声と距離が気になったので反対側の壁際の席に、あっちでもいいですか、と言って移動させてもらった。わたしは肉を食べないので場所や店によっては選択肢が非常に限られて外食がとてもしんどい場合があり、ことパスタとなるとそれこそイタリアンなどのお店の場合ボロネーゼとかカルボナーラとか、肉の入ったパスタしかないような場合もままあるのだけれどしかし和風パスタ、思った以上に選択肢があり、メニューを眺めてしばらく迷ってあぁ全く決められないと思い3周くらいの逡巡を経てサーモンとアスパラの豆乳ベースのクリームパスタのような、なんか、そんなのを注文した。前述の店員さんが「セルフオーダー制となっておりますので」と言ってQRコードの書かれたあれは何と言うのだろう、席ごとにテーブルの端っこに立っている小さな看板のようなポップのような、ファミレスなんかによくあるああいうのを指して案内してくれ、あぁこれは以前友達とやぶれかぶれな気持ちで入った青山の地下のビールバーがこんなスタイルだったなと思って、スマートフォンから注文、しかしこれだと麺を少なめにして下さいと言いたい場合はどうしたらいいのだろう、という疑問が沸いたときには注文ボタンを押してすでに5分ほど経っていたのでもう麺茹でてるかもな、と思って店員さんに声をかけるのはやめた。

予想通りというか期待通りパスタは特別美味しくもなく美味しくなくもなく(しかし麺がとても硬かった、わたしは麺類は硬めが好き派だけれどそれにしても硬かった、でも汁気の多いパスタだしすぐに柔なくなると自分に言い聞かせてゆっくり食べていたらその通りになった)、この場合美味しくなくなければ良い、それでクリア、と思いながら食べた。スプーンもフォークも何だか特徴的な変わった形をしており食べ辛く、口の周りにソースがついたり口に運ぼうとした麺がするすると皿にこぼれ落ちたりして、ひとりだから良いものの、例えば向かいに好きなひとでもいようものならこれは結構恥ずかしかったな、とか、なんかそんなことをちょっと思ったりして店内を見渡せば若いカップルあるいは女友達男友達同士、あとは家族連れ、ひとりのテーブルはわたしだけで、わたしのようなひとりのひとたちは一体どこにいるんだろうと思い、そうして家の最寄の駅前にある松屋だか吉野家だかのカウンターにはそういえばいつもひとりで食事をするひとたちの姿があるな、と思った。

立川には映画館がいくつかあって、行きしなに調べたところ気になっていた映画の上映が19時からあり、もし気が向いたら観て帰るのもいいななんて思っていて、とりあえずごはんを食べてから考えようと思っていたけれどパスタが運ばれてきた時点で19時15分前でちっともぜんぜん無理だった。川上未映子氏のエッセイ集3部作の一冊目をパスタを食べながら読み終えてしまったので本屋に寄って続きの2冊を買って帰ろうと席を立ち、高島屋の中にあるジュンク堂まで歩道橋を歩いた。雨はすっかり上がっていて、ひとがけっこう出ていて、そういえば今日は三連休の中日なのだった。

今月は何せばかでかいモニターを買ったばかりだし(モニターなんてパソコンの画面を映すだけのただそれだけのものだから1万円とか2万円とかそれくらいで買えると勝手に思い込んでいたのだけれどとんでもなかった)その他あっちやこっちへのプレゼントなどで散財が続いていたので、同シリーズの2部と3部、文庫2冊だけを買って帰ろうと心に決めて本屋に立ち入ればあっという間に腕の中には単行本が積み重なり、でもそうなるともう抗えないのでまあ仕方がないわ、と思いながら、最後に目的の文庫本2冊をその上に乗せてレジに行き、8千円くらいかなとか、糖質をどかっと摂取してすっかりぼんやり眠たくなった頭でレジの画面を見つめていれば現れた数字は11680円也。まあ単行本をこれだけ買えばそれはそうよね、と納得しながら、カバーはかけますか、袋は要りますか、ポイントカードはよろしいですか、領収証のお宛て名はどうしますか、ととても丁寧な、いかにも書店員といった風貌の眼鏡の男性の質問のひとつひとつに返事をした。

本を、こんな風にどかっと買うことはときどきあるけれど、なんとなく罪悪感みたいな、こんな贅沢なお金の使い方をしていいのだろうか、みたいな気持ちがどこかにあって、それというのはわたしにもっと収入があれば生まれない感情なのだろうか、ということをさっき家に帰って歯を磨きながら洗面台の鏡の前で考えてみたけれどわからなかった。というかそもそもわたしはまとまったお金を使うこと自体にそこはかとない罪悪感が常にあり、しかしその割にさくさくお金を使うので、だならといってそれに伴うような大した収入があるわけではなく、その辺の噛み合わなさによってそういう後ろめたさみたいなものが生まれているような気がする、ということを考えればやっぱり単純にもっと収入が増えれば解決することなのかもしれないという気もするね。いずれにしてももう少し、最低限人並みにそろそろ働こうと思っているから、まあ、ちょうどいいのかもしれない。憂鬱だけれどでもそれはどの道そうなのだからどちらの憂鬱を取るかという違いでしかないのだった。

なんかこう、ひとといて、とても良い時間を過ごして、でもその時間が終わった瞬間に、今日だったら例えばバスの扉が閉まった瞬間、この間の鹿児島旅だったらふたりと空港で別れてひとりになった瞬間に、そこには明確に、それはそれははっきりとした線が引かれるのであって、それというのはそれまで過ごした時間がどんなに良いものであっても、あるいは良いものであればあるほどに、濃く、しかもものすごい速さで引かれる、というか、むしろずっとそこにあったかのような、なんかそんな様子で、わたしはあっという間にこっち側に引き戻されてしまう。まるで多重人格者かのように、本当に、瞬時に思考とか感情がそこでくるっと入れ替わる。別にどちらが本当とか嘘とかではなく、どちらも自分として自分の中に存在している。そしてその現象というのはひょっとしたら一緒に過ごした相手が家族という単位の場合に顕著なのかもしれない、ということに今日初めて気がついた。帰り、駅からの夜道を歩きながら。そもそも常に個である自分の個が集合体という対象と触れ合うことによって際立ち、いつだってわたしの中や外や周りに存在しているはずの孤独が向こう側の光に照らされてより一層の陰影、立体感でもってわたしの目の前にいまここにあるなぁ、ということを悲しいとも嬉しいとも嫌だとも思わずにただただ事実として、確認したのだった。汗のにおいはすっかりしなくなっていたので、あぁやっぱりあれはかやの汗のにおいだったのだなと思って、あの汗のにおいというのはいつ頃を境になくなるものなのだろうとぼんやり考えた。